はじめてのブログ
2006年6月2日
1.あるお医者さんの死と無罪判決
平成17年12月12日。元国立小児病院心臓外科部長 常本實先生が肝臓癌で亡くなられました。11月30日に、私の無罪判決を見届けた直後に倒れ、12日後に永訣。同じ肝臓癌で苦しんでいた奥様を自宅で介護すること約1年弱。敬虔なクリスチャンであった愛妻を追われるように終の道をいかれました。外科学大系全集の小児心臓外科の主幹編集者であった名医は、小学校3年生から私の主治医でした。我が心の恩師。小児心臓外科学に私を導いてくださった。驕りのない優しいお医者さんだった。
(なお、元国立小児病院循環器科 松尾準雄先生が日本小児循環器学会誌 (第22巻第2号 平成18年3月1日発行)に 「追悼・常本 實先生 常本 實先生(1926^2005年)を偲ぶ」を寄稿されています。
2.二つの新聞記事
1.「無罪判決にも冷静」佐藤医師 笑顔なし 『私も同じ手術受けた』言葉つまらせ・・・(東京新聞 平成17年12月1日 )
「無罪判決を勝ち取った佐藤医師は弁護士と並んで会見に臨み、「医学的に検察の主張が間違っていることはわかっていた」と、冷静に公判を振り返った。
佐藤医師は「起訴状は東京女子医大の調査報告書を追随する内容だが、報告書は心臓外科以外の医師がまとめたもので、学会も間違っていると判断している」と指摘。
理路整然と質問に答えていた佐藤医師だが、遺族に対する思いを問われると「実はわたしも同じ病気で手術を受けています」と切り出して、言葉を詰まらせた。
佐藤医師は小学三年生のとき心臓手術を受け、医師を志した。大学生時代の講師が、そのときの執刀医だったことで心臓外科の道に進んだ。
「小学生で手術をうけることはつらいこと。(明香さんの)カルテを見ると不安な心境で手術に臨んだことがわかる。残念でならない」。佐藤医師は無罪会見でも笑顔をほとんど見せなかった。
2.風の軌跡 (140) ある心臓外科医(セキュリティー産業新聞 2005年12月25日 8面
「・・・「ニュースを見て、彼がでているよ」
慌ててチャンネルをまわすとT女子医大の医療事故の判決だった。心臓手術中に、機器の故障で12歳の女子児童が亡くなり、2人の医師が逮捕されたが、今回機器担当のS医師が無罪判決を受けた。
「最初から無罪と思っていました」「この症例は生涯忘れられないでしょう」
テレビ画面のS医師の表情は硬く、素っ気なくさえ見えた。子どもを失った両親は、死んだ子は帰ってこないのに、と無罪判決に失望を隠さなかった。
頬の削げたS医師の当姿を見ながら、子ども時代の彼とオーバーラップする。はじめて会ったのは彼が小学低学年の頃、ふっくらした頬の美しい子どもだった。両親の寵愛を一身に、何不自由ない家に生まれながら、彼は先天的に心臓に異常があった。小学校5年(ママ)の時に手術を受けて健康体になったが、周りには、手術を受けられない紫色の顔色の子供たちが何人もいた、という。症状の重い友達を気遣って母親に何度も尋ねた。「なぜ、僕だけが手術を受けられるの?」
次に彼の姿を見たのは中学3年生、彼の母親の葬儀の時だった。朝、夫や子供たちを送り出した後、彼女は11時ごろ心臓の発作で倒れ、そのまま亡くなったらしい。中学校の制服姿で小学生の弟の手をひき、大きな目にいっぱいの涙をあふれさせながら、母親の棺の側でけなげに葬列者に頭を下げていた。
彼が心臓外科医の道を目指したのは、誰もが当然、運命的とさえ思えた。
亡くなった女児は、彼が手術を受けた年齢と同年齢(ママ)。「助けてあげたかったでしょうに」「紫色の顔の子供たちを助けるのが願いなのに、死んだ責任を問われるとはね」「生涯忘れられない症例」一言に込められた痛みの深さは、性善を一瞬にしてひっくり返され、性悪の役割が与えられるような、運命の理不尽さに涙した者のみが推し量れるのかもしれない。来年は良い年になりますように。三林和美」
3. 女子医大の心臓病患者から女子医大の心臓外科医へ
生後四ヶ月の女子医大の患者
生後四ヶ月目の乳児健診で、「心臓に雑音」がることを指摘された。「心房中隔欠損症」左右の心房を隔てる心房中隔欠損症。他の合併症がなければ、先天性奇形の中では、軽症である。とはいっても、放置すれば、長生きはできない。教科書には30歳の生存率が約70%とあるものがある。幼児から学童期での手術が必要で、現在の欧米では、カテーテルによる治療(アンプラッツァー)も一般的になってきているが、日本の現状では「小学校に上がる前に」手術する。心臓病の子供をもつお母さんは辛い。4か月といえば、そろそろ寝返りをうち始める子もいていよいよ可愛い盛りになりはじめたころであろう。
私の結婚式で、常本先生がされたスピーチで知ったことは、私の両親は最初に東京女子医科大学病院をを受診したとのことだ。子供のころから、このスピーチまでは、幼児期に東京大学病院に入院した記憶は明確にあったので、「お父さんが通っていた大学の病院だから、入院した」のだと思っていた。私の父は当時全国紙の新聞記者で、女子医大の中山恒明教授の取材をしたことがあり、日本で心臓病といえば女子医大と思っていたようだ。家族や担当医の都合で、女子医大から東大、国立小児病院と病院を移った。1970年代初頭はまだ、小学校に入ってからの方が安全に手術ができるとされていたようで、小学校3年生で手術を受けることになった。
心臓病を持つ子のおかあさん
母は、私を過保護にしなかった。しかし、いつも見守っていた。手術前には、担当医師に中止されていた学校での水泳教室以外は、他の子以上に運動していた。5回表裏制の少年野球で一日に3試合完投したこともあった。「一樹のかあさんは、野球が好きで一樹がピッチャーで四番だからいつも応援にきている。」とチームメートは子供の解釈をしていた。勿論、自分では分かっていた。「僕がいつ倒れるか心配して見に来ている。」と。
小学生になって手術を受けるのは辛い。手術当日はまだ日が昇る前に目がさめた。病棟の廊下にあるみんなが見ることの出来る黒板には、今日の手術の欄に「さとうかずき」とあるのが、ベットのガラス越しから読めた。
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