« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月

2006年9月30日 (土)

「フライデー」名誉毀損事件 弁論終結

 「オウム真理教」関係のブログを書こうと思っていましたが、なかなかブログに時間を割くことができないでいます。

 このブログでは、「本人訴訟」のカテゴリーで、NHK、フジテレビ、小学館相手の本人訴訟による民事事件について書いていますが、それ以外にも本職の弁護士さんにお願いして提訴している事件があります。今のところ、全部で10ありますが、民事訴訟判決第一弾として講談社「フライデー」の掲載記事に対する名誉毀損事件(訴訟名は損害賠償請求事件)の弁論が終結となりました。判決を残すのみです。おそらく勝訴します。

被告 講談社

2006年11月17日午前10時 631号法廷 東京地裁民事第15部 判決言渡

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月26日 (火)

控訴趣意書の答弁書と準備書面と固い床

 現在、控訴趣意書に対する答弁書を作成しています。勿論、刑事事件は弁護士さんがいないとできませんので、何回も会議やメールでの連絡をやり合っています。

 これと同時に、民事訴訟の本人訴訟のフジテレビ、小学館、NHKに対しては、三週間で三つの「準備書面」を作成しなくてはなりません。準備書面とは、裁判で陳述する内容を書類にしたものです。なれない仕事の上、事務的仕事も結構多いので睡眠を削ってやるしかないので頑張っています。本業が終わった後に書いていますが、どうしても明日までに仕上げない書類の作成中に眠くなったら、医局の固い床のカーペットの上に寝ています。寝心地が悪いと直ぐに起きることができるからです。締め切りの近い学会の抄録や依頼原稿、学位論文もこの方法でやっていました。「眠らない」ためには、「眠りにくいところで寝る」ことが仕事を仕上げるのにはよいと思っています。

民事のことをブログに書いても反応する人も少なく傍聴者も少ないですが、念のため一番下に予定を書いておきます。

今週NHKの準備書面の作成にメドがついたら、「東京拘置所と麻原」か「松本サリン事件の担当警察官」についてでも書こうと思っています。

2006年9月27日 フジテレビジョン16時 東京地裁 民事第6部(弁論準備期日)

2006年10月3日 小学館  16時10分 東京地裁 611号法廷

2006年10月11日 日本放送協会13時10分 東京地裁 626号法廷

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006年9月12日 (火)

JFKと私と医療

 9月は私の誕生月です。私が誕生した日から80日目にジョン・フィッツジェラルド・ケネディは暗殺されました。なぜ、我々の世代にも人気があるのか。その理由のひとつは、残された言葉が印象的だったから。 

 私は、自分が診療に疲れたり自信がなくなったりしたときに、引っ張りだす彼の言葉があります。以下の文章の「われわれ」を「私」、「国家」を「医学・医療」、「政権」を「診療」に置き換えて自分を見つめ直そうと思います。

 女子医大幹部や検察官もそれぞれに適応する言葉に置き換えて省みて欲しいと思います。

 「多くを与えられている者には多くが要求される。そしていつ日か、歴史という高貴な裁きの場で、われわれが国家に対するつかの間の奉仕においてどれだけの責任を果たしたかが問われることになるだろう。その時、四つの疑問に対しわれわれがどう答えるかで審判が下されるだろう。

 第一に、われわれには真の勇気があったか。その勇気とは敵に対するものでなく、必要とあれば仲間に対しても立ち向かうことのできる勇気であり、公のプレッシャーだけはなく、私的な欲望にも立ち向かえる勇気である。

 第二に、われわれには真の判断力があったか。未来と過去を真正面から見つめ、自らの過ちを認め、自分たちの知識の限界を知り、それを認める英知があったか。

 第三に、われわれには真の尊厳があったか。自らの信念を貫き通し、人々の信頼を裏切らなかったか。政治的野望や金銭的欲求のために神聖なる任務を汚さなかったか。

 最後に、われわれは真に国家に貢献したか。名誉を特定の人間やグループに妥協せず、個人的恩義や目的のために道を曲げず、ただひたすら公共のため、国家のために身を捧げたか。

 勇気、判断力、尊厳、そして献身・・・これら四つの要素が私の政権の活動の基準となるであろう。」

「ケネディからの伝言」落合信彦著より

| | コメント (14) | トラックバック (1)

2006年9月 5日 (火)

ホリエモンと同じ気持ちの「初公判」

1.晴れの場―晴れの舞台

「堀江前社長は、初公判について、国民の前で意見を言える「晴れの場」と受け止めていたという。」(Asahi.comより)

 分かるな-この気持ち。全く同じ気持ちだった。ぴったりだ。「国民、裁判官、傍聴者の前で初めて意見を言える『晴れの舞台』だ。」と思っていた。「初めて味方になるべき人(裁判官)に会えた。」とも思った。

「われわれが不幸または自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性は全く癒すことはできない。理性もほとんどできない。時間がなにより癒 してくれる。これにひきかえ、固い決意の活動は一切を癒すことができる。」(「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第二巻第十一章から)「批判に対しては、身を守ること も抵抗することもできない。それをものともせずに行動しなければならない。そうすれば批判もやむなくだんだんにそれを認めるようになる。」他のスレッドにも引用したゲーテの言葉は、この気持ちのバックボーンとなる。

 私は商法を全く知らないし、ライブドア事件の事実関係も知らない。(基本的に報道が真実だと思っていないから。)だから、ホリエモンが無罪だとも有罪だとも言えない。しかし、この初公判でのコメントには共感できる。

1-1無罪主張の第一歩

 私の調書には、過失に関する記載が一切ない。逮捕前にも6ヶ月間十数回、逮捕後も20日間以上連続で朝から晩まで、警察官と検察官からの尋問には答えてきたが、自分の過失に関する評価については、話はしなかったし、調書も作らせなかったし、当然署名もしなかった。恐らくホリエモンもその点は同じだったであろう。

1-2舞台は「B会場」

 私の初公判は、保釈前で東京拘置所から他の被告人数十人と共に、銀色に光る手錠(警察庁は黒)を付けたまま、腰縄姿で裁判所に護送されてきた。法廷に入った。家族も傍聴しているところで、そのような姿で法廷入りさせる裁判所の配慮のなさについても頭にきたが、(後の弁護士さんが抗議してそのようなことがないよう約束されたが、次の公判前に保釈された。)この場はむしろ「待ってました。」という場だ。

 私の初公判があった隣の法廷では、リクルートの江副さんの判決が言い渡されたそうだ。弁護士さんからは、それと同等の大きさの法廷で、「広い法廷で天井も高いので驚かないように。」と言われていた。しかし、むしろ狭いくらいだと思った。「逮捕直前にトロントで口演したB会場程度の広さなので、慣れた大きさの器だし、ここにいる人達はみんな日本語が通じる。」と思えば気は楽だった。

2.Tシャツを脱ぎ捨てて

「精悍(せいかん)さを取り戻した主役は、意外にもネクタイ姿で法廷に登場した。かつての急成長IT企業のシンボルだったTシャツを脱ぎ捨てたのは、どんな決意からか。」

 これも私にはわかる。初公判に備えて、肉体や風貌も服装も小綺麗にしようと思った。

 後で知ったが、逮捕されたときは、寝起きでTシャツのまま官舎を出たところをNHKに撮影報道された。それ以来、留置場内でも、拘置所内でもずっとTシャツ、ランニング、ジャージやパジャマで生活してきた。髪の毛も伸び放題、ヒゲは週2-3回剃る程度。

2-1肉体鍛錬

 初公判は舞台だ。私は、初舞台に向けて、肉体を鍛えるために独房の中で、運動をはじめた。午前中のストレッチの時間、午後の体操の時間や入浴前の時間を利用して、腕立て、腹筋、背筋を行った。直ぐに各連続100回できるようになった。留置所で俳優S君に教わったジャズダンスのステップやイラン人に教わった「ナセル式腹筋」も取り入れた。(参照 http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/cat4382001/index.html )オリンパス製監視カメラが、天井から24時間私を捕らえていたが、知ったことじゃない。食事は、留置所に比べたら充実している。おかずはどれもてんこ盛り。最初は本当に「ウジ」が乗っていると思った麦飯は残しても、蛋白質と野菜類は全部食べた。逮捕時より9kg体重が落ちたが、筋肉の形が認識できるようになった。医者になってから、時間どおりに3食とり、徹夜しない日々が3ヶ月も続くということは夢にも見なかった。

2-2散髪と髭剃り

 留置所での散髪は、警察官がバリカンで「丸刈り」にする程度であったが、留置所ではちゃんと理髪師がいて、「調髪」してくれる。勿論、拘置所の職員がバッチリついたまま「調髪用のいす」にすわるが、凶器となる「はさみ」は使用しない。髪の毛を一部上に持ち上げ、毛先をバリカンで一気に切る方法で、調髪は10分で終了した。初公判の前の週に調髪してもらった。

 入浴は、留置所では、5日に一回、8人いっぺんなので、入れ墨品評会をしながら芋洗いの様相である。拘置所で、独房に入っていた私は、鈴木宗男議員やオウムの新実被告と同じ1人用の風呂に週3回入っていた。1人15分。運良くその日最後の入浴者になると30分近く入れる。公判前日は、必ず入浴することになっている。初公判前日。入所当時は怒鳴りまくっていた110kgはあると思われる刑務官「琴光喜」は、不整脈の相談にのってあげた後から時間をサービスしてくれて、この日は40分近く入れた。

 電動カミソリで鏡を見ながら入念にヒゲを剃った。拘置所の備品はどれも古いが、鏡は50年、爪切りにいたっては80年もののビンテージで、「田中角栄もあの顔をここに映したのだろうか。」などとつい考える。

2-3スーツ

 ホリエモンは保釈後なので、ネクタイをして法廷に入ったらしい。拘置所には、凶器や自殺の道具になりやすいネクタイは入らない。ダークグレーのスーツと真っ白のワイシャツを差し入れるよう妻に頼んだ。ハンガーはつるす部分がゴムひもになっているものなら購入できたので、先に買っておいた。3日前には、スーツが独房に入った。

2-4サンダル

 私の独房生活の支えのひとつになっていた、スティーブン・キング原作の「ショーシャンクの空に」の主人公。「無実の妻殺し」で服役していた銀行家アンディが脱獄する日は「人は、足元には意外に気がつかない。」という盲点をつくシーンがある。しかし、スーツにネクタイなし。その上にサンダルではやはり格好悪い。おまけに付けているアクセサリーは銀色の手錠と腰縄。   独房で読んでいたノーベル経済学賞受賞のアマルティア・セン著「自由と開発経済」の中で、アダム・スミスの「国富論」で、どんな貧困の労働者でも人前に革靴ででられるような生活云々と紹介されていたが、このお国では、被告人として勾留されると靴を履くこともゆるされない。品のない茶色のサンダル。これが歩行する唯一の履き物である。

2-5相被告人S講師

 初公判当日。娑婆では見たこともないメーカーのヘアークリームを購入することとなり、髪を整えた。拘置所で許される限り、精悍な自分を作ったつもりである。護送車内で、スーツを着ている人は私以外にいなかった。どくろマーク入りのTシャツやミッキーマウスが描いてあるスエットの人の方がむしろ違和感がない車内。裁判所内の独房で出番を待つ。昼食が出たが当然全皿完食した。裁判所の職員か法務省関係の職員か知らないが、「出番」を伝えにやってきた。「あー。女子医大の事件か。もう示談が済んでいると聞いていたけど、告訴を取り下げなかったのかね。まだ、お金でも欲しんかね。」とおしゃべりな職員がリラックスさせてくれる。法廷隣の待合い室でも1人隔離されていた。

 法廷の被告人席の隣を見て驚いた。初老を思わせる真っ白な髪のS講師が自信なさげに肩をすぼめていた。よれよれのシャツとチノパンがみすぼらしさ強調している。手術室では、「背負い投げ3連発」「きょうじん」「ほえている」等と呼ばれていた力強さは微塵も感じられない。私は彼を憎んでいるが、気の毒なくらいの外見でくたびれている。罪状認否でも謝罪した。(後に無罪主張に転じるが、ブログ「あかの他人の犯罪の証拠隠滅などありえない」http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/cat3889615/index.html 7月21日参照)

2-6やっと会えた裁判官

 ホリエモンもやっと「晴れの場」に立てたことを実感していた以外にも、「やっと自分の味方になるべき人が前にいる。」と思ったのではないだろうか。裁判長は、真面目に私の罪状認否を聞いてくれた。法衣は黒い。何色にも染めることはできない。だったら勝てると思った。

 無罪を確信しているなら「晴れの場」は、待ちこがれていた場のはずである。

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2006年9月 4日 (月)

遠藤直哉弁護士「医療への刑事罰の限界を論ずる」

http://fair-law.jp/template/05-6a.html

遠藤直哉先生(弁護士さん)のホームページ

「 医療への刑事罰の限界を論ずる」からの抜粋を掲載します。

法律家としての視点から「医療への刑事罰の限界」を総論的に論じています。

今回の「大野事件」以前に書かれていたことも考え併せると、普遍的なご意見といえるのではないでしょうか。先ずは私の事件に関連したところから掲載いたします。敢えて私の意見は掲載しません。

・・・・東京女子医科大学病院においては、NHKによって内部の状況が報道されたところ、警察に早期に多くの情報を提供している事が放映され、筆者としては驚きを隠せなかった。病院の側で医療過誤を防止し、情報を公開しようとすることについては大いに評価出来るが、それは警察へ通報することではない。警察へ通報することは刑事事件の端緒や告発になるのであり、むしろするべき事ではないのである。東京女子医大が、改善を急ぐあまり、日本における刑事裁判のありかたを認識しないままに行動したとすれば、極めて問題であるといわなければならない。この点、厚生労働省「リスクマネージメントマニュアル作成指針」にも同様の記載があり、これに従ったものとも思われるが、この記載自体も既に専門家により批判されていることに留意すべきである(3)

   記者会見を含めて情報公開をしても、刑事事件としての告発になるわけではないのであるが、他方、警察への通報は、捜査の密行性の故に情報公開に反する結果に陥ることがあることを認識すべきである。・・・・

(注3)          安達秀雄『医療機器管理』㈱メディカル・サイエンス・インターナショナル(2001.5.30)33頁、173179

医療の特質

 刑事罰は前述したように、「見せしめ」「生贄」「スケープ・ゴート」として、多くの犯罪者の中から、とりわけ目立つ者のみを捕らえ、予防すること(一罰百戒)に特徴がある。しかし、現代では、殺人、傷害、強盗、窃盗、誘拐など典型的自然犯、麻薬犯などの重大犯については、すべての犯人を捕らえる努力がされており、以前に比べ進歩したといえる。しかし、下記のような犯罪は、近代社会において秩序維持のために設定されたが、すべての犯人をとらえることは不可能である。依然として「見せしめ」「一罰百戒」の方法をとらざるを得ない。医療問題はこの類型に入る。(a) 交通事犯(b) 経済事犯 (c) 売春防止法違反 (d) 社会風俗違反(e) その他名誉毀損罪、贈収賄罪、談合罪、堕胎罪、公職選挙法違反、労働基準法違反、知的所有権法違反、薬事法違反など、枚挙に暇がない。

以下、一部の省略を除いてコビーさせていただきます。

「医療への刑事罰の限界」について医療側の理論武装として知っておくべきホームページだと思います。

遠藤直哉弁護士

医療への刑事罰の限界を論ずる

1.       1 はじめに

 生殖補助医療を規制する法案化の議論が進んでいる。この中には、「代理懐胎を斡旋・施術した者(医師を含む)」に対して刑事罰を課するとする内容が含まれている。個別医療行為に対する刑罰としては、初めてのものである。しかし、この点について、社会的には極めて問題意識が低い。また、医療過誤に対して、警察の介入が積極化している。そこで、本稿では医療問題の全体を捉えて、あらゆる医療問題に関して、医療従事者への刑事罰は、原則として強く抑制すべきであることを論証する。この根本的問題についての解決がなされないままに医療問題が検討されていることこそが、危機といえる。

  従前、医療過誤に対する刑事罰は、業務上過失致死罪であった。臓器移植や安楽死についても、刑法の傷害罪または殺人罪が加わるだけであった。これに対して、代理懐胎については、代理母の真の自由意思に基づく同意がある場合には、刑法に触れるわけではないために、新たに立法により刑事罰が新設されるという状況である。

  刑事罰とは、民事罰や行政罰に比較し、最も重い制裁措置であり、医療問題に限らず一般的に刑事罰は謙抑的でなければならない。しかし、特に医療問題に対して、刑罰に頼ることは最小限に止めるべきである。また、医療問題(医療による犯罪)にも、医療過誤と医療倫理違反の2つの類型がある。後者については、さらに刑事罰は抑制すべきである。特に、代理懐胎の禁止に対して刑罰を用いようとする者は、誠に刑罰の本質を知らざるもので、憲法違反(適正手続違反、自己決定権・幸福追求権の侵害など)となることを看過している。

  以上のとおり、新しい立法による刑罰の設定ばかりでなく、そもそも一般的に医療過誤、臓器移植、安楽死、代理懐胎などの医療問題に対して刑罰をもって制裁するのではなく、他の方法によるべきことを検討すべきである。結論としては、刑事罰の縮減をすべきであり、その代わりに民事訴訟の拡大が必要であり、最も重要なことは情報公開と自由な討議に基づく自治的規律作りである。

2         医療過誤問題

 (1) 刑事罰依存主義

   一般的に、法律制度の未発達な段階においては、秩序の維持のために刑事罰に依存することとなる(1)。古代中国から見られるように、国家による刑事罰が法律の中心をなす。イスラム教における「目には目を」の思想も同様である。被害救済も、刑事罰の一環として行われてきた例もあった。このような古代あるいは後進国型の刑事罰依存主義が、中国ばかりか日本の長い伝統となってきた。一般的に、民事訴訟あるいは行政手続法が発展しない場合には、刑事罰に依存することとなる。

   日本においては、明治以来、法曹人口も少なく、民事裁判の未発達の中で賠償額は低く抑えられ、被害者救済は充分ではなかった。その背景には、明治時代の初期から法制度を作る近代化に当たり、警察を全国に配備し、いわば警察の支配による政治体制を作り上げたことが原因していた。司法による支配を中心にせず、警察中心による法律の支配を作り上げた。民・民の紛争又は民・官の対立について、司法による自治的民主的方法によるのではなく、権力による安上がりな方法をとった。そのため、警察権力による、政治に対する介入、労働事件に対する介入、表現の自由・思想の自由に対する弾圧、学生運動に対する弾圧などが行われた。いわば刑事事件のオンパレードとなった。他方、行政手続においては、政・官・財の鉄のトライアングルを守るために、企業に対する営業停止や取消処分は全くと言っていいほど発動されなかった。業界団体の規制は、正に談合とカルテルを守るための規則であり、何ら消費者の被害を防止するためのものではなかった。税理士に対しては大蔵省が監督し、医師に対しては厚生省が監督してきた。ここにおいては、大蔵省を退職した者が税理士になり、厚生省の役人(医師を含む)が医療界と癒着していたため、厳しい措置はとられなかった。また、行政の指導においては、わずかの人数で多く情報を収集することもできず、被害を事前に防止するような体制はとられていなかった。このようにして、昭和の終わる頃まで、民事訴訟における被害回復も充分でなく、行政の予防機能もほとんど発揮されなかった。

   のような中で、社会秩序を維持するために、いわば目立つ者を「見せしめ」「生贄」として刑事罰に晒す(一罰百戒)という方法が安易にとられてきた。

   しかし、威嚇することは、一時的な予防効果を発揮しても、長期的な改革を進めることになるわけではない。なぜなら、刑事制裁を科する手続は極めて密行性を有し、閉鎖的であるため、手続の透明性が決定的に欠けるという欠陥を有している。全ての情報を公開した上での多様な議論をオープンにすることができない。積極的前向きな改善を検討する場もない。それ故、特に、医療行為の是非を検討するのに、刑事手続は相応しくないということになる。

 (2) 規制緩和時代(民事救済)

   規制緩和の時代に入り、市場の論理に則り、事後救済型の社会になりつつある。この場合には、民事手続を通じて被害回復がされ、一定の制裁と予防機能が発揮される。最近では、高額の賠償が認められつつあり、以前に比べ、制裁や予防機能も認められるようになった。たとえば米国では、製造物責任(PL)、医療過誤などは民事手続によって解決されてきたのであり、刑事事件になることは原則としてなかった。

   日本の法文化も進歩してきた以上、医療過誤なども原則として民事手続による解決をすべきである。民事事件であれば、対等な当事者同士で自由な論議をなしうる。もはや、社会の変革の中で、刑事依存主義を捨てるべきことは明らかである。しかるに、有識者、刑事当局もバランスのとれた適正な法規制のあり方を理解していないためか、日本の伝統的な刑事依存主義から容易に脱却できないでいる。

 (3) 行政的制裁

   行政的制裁は、改善命令、営業の停止、免許の取消等を意味する。弁護士、税理士などについては、戒告、営業停止、資格取消を意味している。医師に対しては、医師法第7条により、医業停止、免許取消が規定されている。民事事件や刑事事件が提起され、あるいは確定したときには、医道審議会においてこの行政的制裁が発動される。しかし、医道審議会の歴史においては、刑事処罰を受けた内のさらに極く僅かの者への処置に止まっていた。そこで、医道審議会では、平成14年12月に、より厳しい処置をとるとの方向を打ち出した。しかし、あくまで、刑事罰を受けた者について、これに連動して処分する方向へ拡大したに過ぎない。確かに、この点の改善は必要といえる。しかし、行政的制裁において重要であることは、刑事の結果に追随することだけではない。民事や刑事と異なる「予防」という重大な別の役割を担うべきである。民事事件や刑事事件を引き起こしそうな要注意人物に対し、注意処分(戒告)あるいは数日間の営業停止等、軽い処分により被害の予防、事件の防止をすることである。現在まで、医道審議会はそのような役割が担わされていない。その理由は、医師法第7条には戒告の制度はなく、また、行政手続きにおいて、正確な情報収集を基に、適正な措置をとることが極めて難しかったからである。いわゆる一般的な行政指導が公正、平等、かつ適切に運用されてこなかったことが批判され、これを縮小し、事後監視型に移行するべきとされてきたことからも明らかなように、高度な専門家たる医師に容易に行政指導をなしうるものでもない。しかし、経済紛争の処理に対して、自己責任を強調する事後救済型に移行することに合理性があるとしても、人体被害の伴う医療過誤については、予防という観点がより重要視されなければならない。そこで、以下の情報公開と自治的規律手続の下に、このシステムの支えを受けて、行政的予防措置を行うことが妥当である。

(本章は、既に「産婦人科の世界」平成一五年一〇月号に掲載されたが、その後、厚生労働省は、医療ミスを犯す医師らを刑事処分に至らなくても行政処分の対象とし、処分内容をホームページで公開するとの新しい方針を打ち出した -朝日新聞平成一五年一二月二三日一面)

 (4) 情報公開

   民事手続または刑事手続は、医療事故の防止効果を伴うとしても、直接的な事前の予防措置ではない。事前の予防措置や包括的な教育指導制度はどのようなものであるかを検討しなければならない。まず医師に対して予防措置としての注意処分を出す場合において、重要なことは情報公開である。現場における医療のありかた、患者の意向、当該病院における施設、薬物の手配状況などについての総合判断の中で、医師の行為規範が決められていかなければならない。そのためには、患者・看護師等からの情報提供が必要になる。そして、医道審議会などにおいては、これを客観的に分析した上で措置をとらなければならない。戒告だけではなく、営業停止に至る程の制裁を課すほど、手続は厳格になされなければならない。そして、指導の対象となる医師自体の意見・主張を十分に聞き取り、これの弁解手続を保障しなければならない。このような手続・制度が広く円滑に進むようになれば、民事裁判も減少するし、ましてや、刑事裁判はごく例外的な措置となる。

   これに関し、横浜市立病院は既に、全ての疑わしき医療措置について、記者会見を通じて公表していると仄聞している(2)。患者や市民に対して、徹底的な情報公開をすることにより病院内部の事実を明確にしつつ改善をしていくやり方は、現在の制度の中では妥当な選択の1つと考えられる。

   これに対して、東京女子医科大学病院においては、NHKによって内部の状況が報道されたところ、警察に早期に多くの情報を提供している事が放映され、筆者としては驚きを隠せなかった。病院の側で医療過誤を防止し、情報を公開しようとすることについては大いに評価出来るが、それは警察へ通報することではない。警察へ通報することは刑事事件の端緒や告発になるのであり、むしろするべき事ではないのである。東京女子医大が、改善を急ぐあまり、日本における刑事裁判のありかたを認識しないままに行動したとすれば、極めて問題であるといわなければならない。この点、厚生労働省「リスクマネージメントマニュアル作成指針」にも同様の記載があり、これに従ったものとも思われるが、この記載自体も既に専門家により批判されていることに留意すべきである(3)

   記者会見を含めて情報公開をしても、刑事事件としての告発になるわけではないのであるが、他方、警察への通報は、捜査の密行性の故に情報公開に反する結果に陥ることがあることを認識すべきである。

 (5) 自治的規律

   医療問題について最も重要なことは、以下のとおり、手続の透明化、自由な討議の保障、これを基にした自治的、可変的な規律を常に維持することであろう。

  (a) 情報の収集

  (b) 情報の分析

  (c) 関係者間の自由な討議

  (d) 病院内における報告、討議

  (e) 病院としての措置(教育的措置、戒告、減給等)

  (f) 被害者との協議(保険会社との協議)

  (g) 自治的規律の策定

  (h) 学会への報告、討議

  (i) インターネットによる公表、記者会見

  (j) 自治体、厚生労働省への報告

以上のような考え方については、既に、厚生労働省・医師会・各病院におい

ても、指針、ガイドライン、マニュアルとして公表されている(注4)。これらはさらに、日常的に予防のために改善や点検を加えるべきであろう。

3      医療の特質

 刑事罰は前述したように、「見せしめ」「生贄」「スケープ・ゴート」として、多くの犯罪者の中から、とりわけ目立つ者のみを捕らえ、予防すること(一罰百戒)に特徴がある。しかし、現代では、殺人、傷害、強盗、窃盗、誘拐など典型的自然犯、麻薬犯などの重大犯については、すべての犯人を捕らえる努力がされており、以前に比べ進歩したといえる。しかし、下記のような犯罪は、近代社会において秩序維持のために設定されたが、すべての犯人をとらえることは不可能である。依然として「見せしめ」「一罰百戒」の方法をとらざるを得ない。医療問題はこの類型に入る。(a) 交通事犯(b) 経済事犯 (c) 売春防止法違反 (d) 社会風俗違反(e) その他名誉毀損罪、贈収賄罪、談合罪、堕胎罪、公職選挙法違反、労働基準法違反、知的所有権法違反、薬事法違反など、枚挙に暇がない。

  医療問題は、この範疇の最も典型であることが分かる。医療過誤、医療倫理問題も含め、医療とは、患者の同意の下に身体に危害を加えることに特質がある。患者の同意の下に、最も価値の高い治療という行為が大量になされている。この内、刑事罰として値するものは、故意、重過失である。形式上は、過失行為すべてが処罰の対象となるはずであるが、現実には故意、重過失だけを処罰することしかなしえない。医療においては、軽いミスは必ず起こるといえる。「To Err Is Human」(注6)という標語は医療の特質を示しており、それ故、ミスもやむを得ないものであり、すべてのミスが刑事事件になるわけではない。さらに、医師の裁量性から、ミスともいえないとの議論にもなる。それ故、まず第1に故意、重過失を選別する必要がある。その意味では、典型的な「見せしめ」「一罰百戒」が当てはまる。わかりやすく言えば、医療における「単なる過失」は刑事罰を課せられない。しかし、過失と重過失(故意も含めて)の選別は、それ程容易ではない。警察に踏み込まれたときには、単なる過失も犯罪であり、社会的にはマスコミを通じ、重過失(または故意)の烙印が押される。すなわち、本人がいくら注意していても、社会的には重過失として「生贄」とされる。それ故、医療従事者は、まず客観的に故意、重過失とみられないよう常に防衛する必要がある。たとえば、前記マニュアルなどを遵守することである。このように慎重に医療に従事すれば、自然と単なる過失も減少できる。本来、医療への刑事罰は、故意または故意に近い重過失に限定すべきである。単なる過失行為は民事訴訟に委ねるべきである。しかし、日本の刑事当局は、前述したような歴史から、そのような明確な方針や政策を持つに至っていない。被害者の要求、偏った情報、マスコミ操作により、単なる過失犯が社会的には重過失犯に仕立て上げられる。医療従事者の側は、余程誤って「生贄」にされないよう注意する必要がある。

4         医療倫理問題(代理懐胎など)

 略

5         おわりに

 現在の医療は、複数の医師、看護師、薬剤師、病院スタッフ、製薬会社などの多くの協力による、成り立っている。チーム医療もその例である。各人には応分の義務と責任がある。しかし、刑事罰を科するときには、「生贄」として、わずか1~2名を選び、他の人の責任も押しつけることになる。その結果、他の人の責任と原因の解明は不問に付されることとなる。これに対して、民事訴訟、自治的規律による場合には、多くの関係者のそれぞれの部署の責任、各人の責任を明らかにして、原因を解明したうえで、将来の改善案を提示することができる。このような考え方は、企業経営者の行動規律について、筆者が、取締役の分割責任として、明らかにしたものと同様である(遠藤直哉『取締役分割責任論-平成13年改正商法と株主代表訴訟運営論-』信山社 2002年)。

(注1)              遠藤直哉『生殖医療に対する刑事罰に反対する-田中温委員を含む専門委員会の限界について』産婦人科の世界54巻5号(2002.513頁以下

(注2)              安達秀雄『医療機器管理』㈱メディカル・サイエンス・インターナショナル(2001.5.30)163168

(注3)          安達秀雄『医療機器管理』㈱メディカル・サイエンス・インターナショナル(2001.5.30)33頁、173179

(注4)            安達秀雄『医療機器管理』㈱メディカル・サイエンス・インターナショナル(2001.5.30)163179

(注5)              遠藤直哉『矛盾だらけの一審判決』「全検証 ピンクチラシ裁判」所収、一葉社(1993.10)112頁以下

(注6)              相馬孝博『米国に学ぶ医療安全の方向性』病院626号(2003.6

    1999年の米国医学院(IOM;Institute of Medicine)の報告書は、米国詩人ポープの名文句「過つは人の常、許したもうは神の業(To err is human,to forgive,divine)」からとったタイトルと、米国医療事故犠牲者は交通事故死者数を上回るとの衝撃的な推計で、英語圏のみならず世界中の注目を浴びることになった。(1)第一報告書:To Err Is Human1999.11)、(2)第二報告書:Crossing The Quality Chasm(2001.)

(注7)              小野幸二『アメリカにおける代理出産の法的規制』産婦人科の世界55巻5号(2003.553頁以下、米国のニューヨーク州の判例として、505 N.Y.S.2d 813, 550 N.Y.S.2d 815

(注8)              遠藤直哉『生殖補助医療の法案化をめぐる日本産科婦人科学会の歴史的役割-根津医師と日産婦の和解について』産婦人科の世界55巻5号(2003.581頁以下

[資料]FROMガイドライン2002年2月3日 FROMは自治的規律のモデルとして作成した。

             

              二〇〇二年二月三日          

| | コメント (0) | トラックバック (5)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »