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2008年5月28日 (水)

冤罪で断たれた青年医師の夢

「冤罪で断たれた青年医師の夢」 坂井眞弁護士(「市民的自由の広がり」 社団法人 自由人権協会編より

「関東地方のある都市の大学院で研究に励んでいた青年医師がいた。彼は,病院に勤務しながら研究を続け,将来はアメリカに留学をして専門領域の実力を高め,その分野で活躍していこうと夢見ていた。昼間は病院勤務を続けながら大学院で研究に従事し,深夜にも研究室で実験データの整理などに追われる毎日を送っていた。

そのような生活を送っていた今から数年前の629日深夜未明、彼は実験データの整理をするため自家用車で自宅から研究室に向かっていた。その途中で尿意を催した彼は,小用を足すため幹線道路から一歩入った墓地沿いの裏道に車をとめた。そこに,ヘッドライトを消した怪しい乗用車がゆっくりと通りかかった。そのような場所と時刻であるから,なんとなく不安を感じた彼は,その怪しい感じの車をやり過ごそうと立ち小便をする振りをした。すると,その車が彼から数メートルのところに止まり,女性1,男性1名が下りてきて,女性から「警察だけど,何やってるの?」と誰何(すいか)された。

実はその当時,現場付近では連続放火事件が発生しており,警察官が警戒に当たっていたのだった。そして,深夜人通りのない裏通りでひとり壁に向かって立ち小便の格好をしていた「怪しい」若い男性である彼は,この連続放火事件の犯人ではないかと疑いをかけられたのだった。

そのような状況の下,彼は結局,「午前430分頃,乗用車に乗車していた警察官2名に向かって,自己の陰茎を露出した上右手で自慰行為を行い,もって公然とわいせつ行為をした」として,公然わいせつ罪の容疑で現行犯逮捕されてしまった。要するに露出狂の変態男として逮捕されたのである。ただ,当初の警察の考えとして狙いはあくまで放火犯であり,別件逮捕ということだったのではないかと想像される。このように別件で逮捕・勾留され,放火犯ではないことが明らかになったにもかかわらず,被疑者が事実に基づいて否認を貫いた結果,これから述べるようなとんでもない事態に進展していったのである。この事件は,別件での身柄拘束,その身柄拘束下での取調がはらむ問題をもよく示している。

さて,彼は逮捕後ももちろん強く容疑を否認し心その結果どのような事態が生じたのか。彼は裁判官の決定により勾留され,718日に起訴されたが,その後も保釈は認められず,結局811日の合計44日間も身柄を拘束されたのである。これが,悪名高き「人質司法」でなくて何というべきか。

逮捕,勾留には容疑の存在と身柄拘束の必要性が要件とされる(刑訴法199条以下)。この場合そもそも,後に東京高等裁判所が認定したとおり「路上での自慰行為」など存在しない。仮にその点を措くとても,彼は身許の確かな青年医師で逃亡の虞はなく,しかも,被疑事実の性質からして,証拠を隠滅する方法などない。犯罪を裏づけるとされる証拠は逮捕した2名の警察官の供述だけだからである。そして、公然わいせつ容疑の具体的内容は「深夜人通りのまったくない墓地の塀にそった裏道で,たまたま通りかかった警ら中のパトカー乗車の警察官以外にひと気のない場所で,警察官に向かって公然と自慰行為をした」行為であるというのであるから,仮に事実どおりであっても社会的に実害のほとんどない行為であって,少なくとも長期の勾留の必要性など認められない事案である。

「そもそも人通りのない路地で早朝に壁に向かって陰茎を露出していたという態様自体がその意図にそぐわない」(後の東京高等裁判所による認定)から,捜査機関が容疑として主張する事実自体のなかに客観的な矛盾が内包されていたのである。

しかし彼は44日間も身柄を拘束された。

捜査機関が被疑者の身柄を拘束するためには裁判官の発する令状か必要である(憲法33,刑訴法199条以下)。本件でも,もちろん裁判官の勾留許可状が発せられている。いかに憲法や刑事訴訟法で身柄拘束に必要な要件を定め,且つ,裁判官の令状が必要だと定めたとしても,この青年医師のような被疑事実で易々と裁判官が令状を発布してしまうのでは,憲法や刑訴法によって被疑者・被告人の権利を保障している実質は失われてしまう。仮に,捜査機関がその当事者的な立場から無理のある令状請求をすることがありうるとしても,裁判官が記録をしっかり検討し,身柄の拘束が真実必要な事案であるかどうか正しく判断し,また,事実関係や容疑として主張されている事実の矛盾に気づいていれば,このケースで44日間にもわたる身柄拘束が認められたり,正式裁判が請求されたりすることはあり得なかったはずである。

しかし,現実に行われている「人質司法」では,これから述べるように捜査機関が不当な身柄拘束を利用して無理に自白を迫ることは珍しいことではなく,その結果作り上げられる調書によって,起訴さらには有罪判決への道筋がつけられ,冤罪の可能一性が高まっていくのである。

この青年医師は,当然のことではあるが,事実無根の容疑に対して正面から戦った。深夜とはいえ路上で自慰行為を行って公然わいせつで逮捕され,有罪となったというのではまさに「破廉恥な変態医師」ということになり,彼の人生は崩壊する。だから戦うのは当然と言えるが,しかしそれは口で言うほど簡単なことではない。

まず,身柄を拘束されると,その翌日から勤務先病院との関係で支障が生じる。数日間であれば,体調不良と偽ることも可能かもしれないが,44日間ということになっては手当の仕様もない。同様に,大学院での研究活動についても,すぐに問題が生じ始める。そして,公然わいせつの現行犯として逮捕されたということになれば,世問では「警察官が虚偽の容疑で逮捕などするはずがないし,裁判官も根拠なく勾留状を発したりしない」と考えるから,彼の「有罪」は社会的に確定してしまう。そのような経過で彼が長年努力して作り上げてきた杜会関係は根底から崩壊し始める。

このケースでは,ある新聞がこの青年医師の実名を出して,「公然わいせつの現行犯で医師が逮捕された」と報じたから,彼はそれまでの社会的生活環境から事実上排除されてしまった。

そのような状況のもとで,警察官が自白を迫ってくる。「容疑を認めればすぐに釈放されるだろう」とか,「容疑を認めれば正式裁判請求されず略式罰金で済むだろう」などと言い,逆に,「容疑を認めないとずっと代用監獄から出られないぞ,おまえの一生はこれで台無しだ」などと脅したりする。これは,憲法38条に定める黙秘権の侵害に当たるが,現実にこのようなことが行われてきたことは,近時明らかになった鹿児島の選挙違反無罪事件や,富山での強姦事件で服役後に真犯人が判明して再審が開始され,再審では検察官による無罪の論告を経て無罪判決が確定した事件での取調状況に関して指摘されているとおりである。

この青年医師は,それでも捜査官に迎合しないで,自分は路上で自慰行為などしていないと否認を続けた。それは正しいことであったが,その結果勾留が長期化し,正式裁判が請求されるに至った。報復的な対応というほかない。すでに述べたとおり,検察官の起訴事実は矛盾に満ちたものであるばかりでなく,それを前提としてもほとんど社会的実害などない。そもそもこの被疑事実は,放火事件に対する別件であったはずなのである。であるのに,身柄を拘束したまま正式裁判請求に至るなど,およそ妥当な判断とは思われず,バランスを失しているというほかない。

この事件の第一審判決は,事件翌年の217日に下された。検察官の主張をそのまま認めた罰金8万円の有罪判決であった。

逮捕,それに続く長期間の勾留,さらに7ヵ月に及ぶ審理を経る中で,この青年医師はそれまでに努力して築き上げてきた人生をすべて失いそうになっていた。だから,彼にとっては,この判決は到底受け入れることはできないものであった。彼にとって重要なのは罰金の額ではないのである。冤罪を晴らそうとすること以外,彼の取るべき道はなかったということである。

私は.東京高等裁判所での控訴審から弁護を担当することとなった。彼と会い,彼の話を聞けば真実であるという説得力はあったが,しかし,長く刑事弁護の実務に携わってきた弁護士としての経験から,彼の期待に必ず応えられるという自信はなかった。警察官2名が現認したという公然わいせつ行為で有罪となったのである。警察官2名の目撃供述に信愚性がないことについて,裁判官を納得させる以外無罪を獲得する道はない。これは簡単なことではない。なにしろ「99%超は有罪」なのである。

私は,彼にこの国の刑事裁判の実情をよく説明したうえで,出来る限り努力をして無罪判決を目指そうと話し受任した。

東京高等裁判所には,事件から1年あまりが経過した720日に弁護人から控訴趣意書を提出し,控訴審の審理は8月7日から始まった。そして,控訴審判決は,翌年27日に下された。完全な無罪判決だった。逮捕から18か月が経過していた。

無罪の決め手は,弁護側が控訴審で取調を請求して認められた、逮捕時の女性警察官の証人尋問だった。この尋問により,現行犯逮捕手続書の記載内容に信用性がなく,また,逮捕時に男性警察官が現認したと述べる「被告人の自慰行為」についての目撃内容が,女性警察官の供述とは整合しないことがはっきりしたのであった。これにより,「青年医師が深夜路上で警察官2名に向かって自慰行為を行った」という検察官の主張を裏づける唯一の「証拠」は崩壊したのである。すでに触れたように東京高等裁判所は「そもそも人通りのない路地で早朝に壁に向かって陰茎を露出していたという態様自体がその意図にそぐわない」(人に向かって公然と自慰行為をしたいという欲求と、深夜人通りのない墓地裏の路上でそのような行為をしようとしていたという行為とが,互いにそぐわないということである)とし,さらに、現行犯逮捕手続書の記載内容について「その作成主体がだれであったかについて,事実とは異なる理解を招く記述であって,捜査官としては単に表現方法が不適切であったなどということで簡単に片付けられない問題」が存在しているばかりか,その内容についても,法廷での警察官2名の証言との間にとの間に齢齢が存在し,「一体誰の認識が反映されてこのような記載内容になったのかはまったく判然としない」ものであると認定した。そして,この事件の刑事手続の「方向性を決定づけているといっても過言ではない」,「犯行の現認状況に関する重要な事実についての記載が,一体誰の認識内容を記載したものであるのかが判然とせず,その作成経過が後の検証にも耐えられないなどという…刑事手続における現行犯人逮捕手続の重要性に照らすと,あってはならないこと」が行われていると明確に認定し,青年医師の完全な無罪を言い渡したのである。

この判断は素晴らしいものである。判決言い渡しの際,法廷で,青年医師が涙ぐんで喜んでいたことを思い出すし,依頼人である彼の人生の幾分かが回復できたことは言葉に表せないほど良かったと今でも感じる。

しかし,問題はそういうことではなく,市井の一青年医師であり,人生に夢を持って努力を続けていた彼が,どうして2年近くにもわたってこのような筆舌に尽くしがたい苦しみを味わわなければならなかったのかということである。

すでに述べたとおり,憲法や刑事訴訟法では,被疑者・被告人の権利が保障されている。しかし,実務においてそれらの保障や権利に命を吹き込む運用がなされなければ何の意味もないということが,この事件によく表れているのである。身柄拘束が許される要件,黙秘権の保障適正手続の保障,そして無罪推定の原則の尊重,これらを実質化しない限り,いくらでもこのような事件は繰り返されるであろう。

この青年医師は,まだ運が良かったといえるのかもしれない。控訴審で被告人や弁護人の言い分に耳を傾ける姿勢のある裁判官に巡り合ったこと,そしてなによりも,法廷での尋問で,唯一の有罪の裏づけであった警察官の供述の矛盾を明らかにすることができたこと。しかし,これらは努力をすれば必ず実現するとは限らない。実際,第一審の裁判官は,被告人の主張を一顧だにせず、同じ事件で検察官の主張を100%肯定し,有罪としているのである。

しかし,冤罪を免れることができるかどうかが・運の良し悪しで決まって良いはずがない。

この青年医師は,あなたであったかもしれないし,あなたの兄弟であったかもしれないし,あなたの友人であったかもしれない'ずれにしても,あなたやあなたに近しい人であっても全くおかしくない。そのような普通の市民が,,たまたま通りかかった裏通りで・放火犯を警戒中の警察官に誰何されただけではなく、別件逮捕で「公然わいせつ行為」をでっち上げられ,44日間も身柄を拘束された。その挙句,身に覚えがないから懸命に否認すると「反省がない」として起訴されたばかりか一審判決で「路上で自慰行為をした」破廉恥な公然わいせつ犯として有罪を宣告されたのである。そのようなことがこの国で現実に起こっているのだということをぜひ認識していただきたいのである。

この青年医師のような立場に立たされた人は,間違いなく日本の刑事司法制度の被害者であり,犯罪被害者と対立する立場にないことははっきりしているだろう。市民がこの青年医師のような窮地に追し込まれないためにも,被疑者・被告人の権利を保障し、無罪推定の原則を確立していくべきなのである。

彼は,アメリカ留学の夢をこの事件で絶たれてしまったものの,「運良く」冤罪を晴らすことができたので、現在医師として活躍している。しかし,18ヵ月にわたって不当な刑事手続によって苦しめられ,人生を破壊されたことに対して国家が償ったのは、44日間の身柄拘束の後に無罪判決が確定したことに対して、元被告人の側から請求して初めて支払われた刑事補償金55万円のみである。

この文章は、以前にも紹介した「市民的自由の広がり」 社団法人 自由人権協会編「第10章市民の生活と被疑者・被告人の権利」に掲載された、弁護士の坂井眞先生が書かれた文章です。

「検察官の証拠隠し」

http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_a44d.html

「市民的自由の広がり」

http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b338.html

 最近「私や大野病院事件の加藤先生が逮捕されたのは、『国民の声を受けて、警察が法を粛々と執行した結果で当然のことで、悪いのは法律だ』と指摘してくれた人がいました。旧過失論的な刑法を背景にいろいろと議論を進めていましたが、「警察が法を粛々と執行」したという証拠も根拠もありません。中学生が、警察官や検察官を全面的に信頼するかのようですが、読みやすいこの本を紹介したいです。警察官や検察官の批判を書いてきたが、人権派の弁護士さん達が一番検察の恥部を知っています。坂井先生の総論を次に引用させていただきます。

1「有罪率99%」と被疑者・被告人の権利

日本の刑事裁判では,有罪率が99%を超える。その背景には、起訴便宜主義(刑事訴訟法248)のもとで,検察官が有罪立証の見込みが立たないと判断した事件をスクリーニングし,不起訴またまたは起訴猶予処分にしているという事情もあるのかもしれない。しかし,この数字はどう考えても異常というべきである。日本弁護士連合会のメディア問題調査団の一員としてオーストラリアのシドニーを訪れた際、ニューサウスウェールズ州検察局の高官が,彼の地では有罪の答弁をせずに陪審の判断を仰いだケースのうち,42.8%が有罪,49.5%が無罪の評決であるという状況について,「満足している」と述べ、公正な裁判が行われている現れだと説明したことが思い出される。

 多数の目撃者がいるような場で傷害や殺人事件が発生し,被技者が現行犯として逮捕されたような場合は,少なくとも人違いの虞はない。しかし、その場合でも,なぜ被疑者がそのような行為に及んだかについて,証人がすべて目撃していてそれを証言できるというわけではない。正当防衛かもしれないし,緊急避難かもしれない。動機についてはそもそも目撃者が証言できるわけではない。まして,通常は現行犯ではなく,過去に起こった犯罪事実について,例えば「人が異常な死に方をしている」というような犯罪の結果を端緒として捜査が開始される。そして捜査機関は証拠を収集し,それが事故なのか殺人事件なのかも含めて判断し,犯罪であるとの結論に至った場合には,捜査機関が犯人であると考える者を起訴して法廷で捜査機関の考える犯罪事実を立証していく。この作業が警察と検察の任務である。

これは,簡単な作業ではない。テレビドラマのように,最初から筋書きが分かっているわけではない。あくまで、発見された「犯罪の結果」から,時間をさかのぼって犯罪行為の痕跡である証拠を拾い集めて、過去に起こった事実を立証していかなければならないのである。困難な作業であることも多いというべきであろう。

そのような困難な作業を経て,被疑者は起訴され刑事裁判が行われる。であるのに,その結果有罪率が99%超というのは,いったいどういうことか。刑事裁判は検察側と弁護側双方の言い分のどちらが正しいのかを判断する場のはずである。もちろん,有罪を当初から認めている事案も多く存在するが,それを考慮したとしても,一方当事者である検察官の主張がほぼ100%の確率で認められるというのは異常ではないか。日本の捜査機関が他国より際立って優秀であり,「神」に近い正確性を有しているというのであろうか。

99%超が有罪となるという事実は,刑事裁判官が、担当した事件の99%超の割合で有罪判決を書いているということを意味する。眼前で法廷に立つ被告人の99%超が有罪であるという毎日を送ることは、裁判官に影響を与えないのだろうか100回に1回も書くことのない無罪判決を書こうとした時に,裁判官は躊躇を覚えないだろうか。

 99%超が有罪になるという事実は,公判を担当する検察官に影響を与えないのだろうか。検察官は,刑事裁判における当事者の一方であり、被告人を有罪とすることが基本的な任務である。樋察官が起訴した事件の99%超が有罪となる現実のもとで1%以下の確率でしか現れない無罪判決が自らの担当事件について下されることは,検察官にとってもっとも回避すべき恐ろしい事態ということになってしまわないだろうか。それは,無罪方向の証拠を隠してでも有罪判決を得ようという衝動をもたらし,真実発見という検察官のもうひとつの義務(刑事訴訟法1)に反する事態,すなわち冤罪の発生を招くのではないか。

これらの危倶は,日本の裁判官や検察官が優秀であるとか,プロとして訓練されている,などということによって回避できるものではない。どのように優秀なプロであっても,人間である以上間違いを犯すことがあるのは否定できないからである。そして,刑事裁判で被告人に不利な方向で間違いが起きれば,冤罪によって被告人の人生が破壊されるのである。

このような重大な結果を回避するためは,裁判官や検察官の資質の問題としてではなく,システムとして冤罪の発生を防ぐ体制を作らなければならない。そのような観点から認められているのが,無罪推定の原則であり,刑事手続における被疑者・被告人の諸権利である。それらの保障によって,冤罪発生の防止が図られるはずなのである。

有罪判決が下されるまでは被告人は無罪と推定される。そして,有罪の判断を下すためは,合理的な疑いを容れない程度の立証が必要とされる。また,憲法では,31条以下で,詳細に被疑者・被告人の権利が定められている。適正手続(デュー・プロセス)の保障,公平・迅速な公開裁判を受ける権利,証人に対する反対尋問権,拷問の禁止、弁護人依頼権,黙秘権,令状なしに逮捕や捜索押収を受けることのない権利等である。それらの原則や諸権利が法の定めどおり実現されていたら,有罪率99%超ということはありえないのではないか。「無罪推定の原則が認められ,被疑者・被告人の諸権利も保障されたうえでの有罪率99%超だから問題はない」,ということではないのである。それらの原則や諸権利が実現されていないことが,有罪率99%超という結果をもたらしているのである。

1人の無睾をも罰することなかれ」ということの意味を市民一人ひとりが自らにひきつけて理解する必要がある。そのとき初めて無罪推定の原則のもつ価値の重さも実感できる。自らが冤罪で刑罰を受け、人生を破壊されることを想像してみる必要がある。自らは決して裁かれる側に身を置かないと無意識に考えている限り、この原則の価値は理解できない。

無罪推定原則を強調しすぎることによって・処罰すべき犯人を逃してしまうことにならないか,それで社会の治安は保たれるのか被害者は納得できるのかと考える人がいるだろう。しかし、そのように考える人は,自らがそのような理屈で冤罪によって処罰さ札築き上げてきた人生を破壊されることになった場合も、それで納得できるのだろうか。

社会の治安が保たれるべきこと,そして,被害者が保護されなければならないことは当然で旅だからこそ刑罰が法律で定められているのである。私刑(リンチ)は否定され,公刑罰制度が確立されたが、被害都保護や救済と,公刑罰とは無関係ではない。ぜなら公刑罰の目的として応報感情の充足が当然のこととして掲げられれるからである。

犯罪被害の悲滲さはしっかり認識されなければならないし、被害者は救済されなければならない。しかし,そのことと、現に被疑者とされまたは被告人とされた者が有罪であるかどうかはまったく次元の異なる問題である。犯罪の被害が発生している以上「誰か」が犯人である。(ブログ管理人はそうでない場合もあると思うが)しかし,その「誰か」が現在被疑者とされ被告人とされている者であるかどうかは,証拠の裏づけをもって、合理的な疑いを容れない程度に有罪立証がなされて初めて決することができるのである。捜査機関の主張する犯罪像が常に事実であるとも限らないこれも、証拠によって立証されて初めて確定する。そのような過程を経ることなく,被害の悲惨さを強調して,現在の手続において被疑者・被告人とされている者を犯人として扱うことは許されてはならない。それが無罪推定の原則の帰結である。

有罪率99%超という現実が存在し,そこで被害の救済,被害者の保護を強調すると,無罪推定の原則がおろそかにされやすい。なにしろ99%以上は被告人を犯人扱いしても確率的には誤りではないということになるからである。それが,さらに冤罪を生む契機となっていく可能性がある。冤罪でなくても,証拠によって裏づけられていない「犯人像」,「犯罪像」が独り歩きし,冷静さを欠いた非難が先行する虞が生じる。

まして,現実の日本の刑事手続において,無罪推定の原則や被疑者・被告人の権利は憲法や法律の定めどおりに実現されていない。そのような現実をみると,有罪か否かが決せられる前の段階において,被害者の救済を強調して被告人を犯人として扱うことの危険性はさらに明確になる。以下,実際に弁護人として担当した事件での経験を通して,形式上は憲法や法律で定められている被疑者・被告人の権利が,日本の刑事裁判手続では,現実に保障されているとは到底言えないということ,そして,一般の市民の誰もが偶然に被疑者・被告人となりうることを述べてみたい。そのような刑事裁判手続の実態を前提として,被疑者・被告人の権利の保障は,被害者保護の要請に反するものではなく,それとは別次元の問題であること,さらに,裁判員制度とそれを前提とした公判前整理手続についてどのような視点が必要か、についても触れてみることとする。」

 検察官についての本は以下の二つが白眉です。

・「アメリカ人のみた日本の検察制度日米の比較考察」デイビッド・T. ジョンソン

     日本 権力構造の謎」 カレル・ヴァン ウォルフレン

そして坂井先生と「薬害エイズ帝京大学事件」でとも闘った喜田村洋一先と弘中惇一朗先生の文章の両方が読めるのが、「『大野病院事件』初公判に向けてのエール 『医療事故と検察批判 』―東京女子医大事件、血友病エイズ事件、両無罪判決より-」

http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/__100b.html

です。

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コメント

例の痴漢容疑で逮捕された冤罪を取り扱った映画では,そのまま有罪になってしまい,刑が確定してしまったという話でしたが.本当に恐ろしい.対抗処置はないものでしょうか.

投稿: 遊牧民 | 2008年5月28日 (水) 15時00分

遊牧民先生コメント有り難うございました。
 私の記憶では、あの映画では、一審までの話で、控訴したとか、刑が確定したとかいう話は出てこなかったと思います。
 対抗処置としては、痴漢に間違われないように日頃から常に注意して行動する。日頃から弁護士さんと連絡をとっておいて、疑いをかけれたときには、直ぐにその信頼している弁護士に連絡する。くらいでしょうか。

投稿: 紫色の顔の友達を助けたい | 2008年5月31日 (土) 00時16分

最近ですが,こんなことも有りましたね.
http://www.youtube.com/watch?v=nTfSgBXxucQ
看護師は「ケア」といい,北九州市は「刑事訴訟法による傷害行為ではなく,高齢者虐待防止法による虐待」,検察は「立件されるにたる傷害行為」
実際は北九州市の「虐待」認定の発表のあったすぐ後にこの看護師は逮捕され,100日以上拘留されていたと.

まったく,これなんぞ,冤罪もいいところでしょう.憤りを通り越し,もはや「ああ,こんなこともあるんだな,看護師も大変なんだな」と自虐的になってしまう今日この頃です.

投稿: 遊牧民 | 2008年5月31日 (土) 14時58分

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