弁論要旨(全91頁)
(全文は詳細で水ももらさない弁論でですが、心臓外科の専門知識や法律専門知識(特に刑事訴訟法)の基礎がないと、理解を超えそうな部分は相当量を削除ないし省略して大項目のみとした箇所があります。)
まず、「第1」と「第5」のみを閲覧してみてください。
第1 序
1 判決にあたっての要望
原審の弁論において、被告人・弁護人は、裁判所に対し、判決にあたっては、
・ 事案の真相を明らかにすべきこと
・ 医学水準に立脚した認定を行うべきこと
の2点を要望した。
今、原判決から3年余を経て、事実審の審理を終えるにあたり、被告人・弁護人は、再びこの2点を裁判所に要望しておきたい。
私たちは、原審以来、「本件手術の日に何が起こったか」という事実を再構築し、その上に立って、「患者はなぜ死亡したのか」「患者の死亡に責任を負うのは誰か」を明らかにしてきた。
その結果、私たちは、本件が検察官の主張するような被告人の過失に基づくものではないことを疑問の余地なく証明した。原審も、これを真実として受け入れ、被告人に対して無罪を言い渡した。
当審においても、私たちの姿勢には変わりがない。医学水準に則って事実を探求すれば、必ず真実が明らかになるとの確信にはいささかの揺らぎもない。これまで私たちが明らかにした事実は、以下に述べるとおりであり、裁判の結論としては、原判決の維持以外にはありえないものである。
2 検察官の態度
これに対し、本件における検察官の主張、立証は、遺憾ながら、これとは相反するものであった。
当審の審理で焦点となった患者の死亡原因が何であるかについて、検察官は、その主張の裏付けとなる医学論文、専門書を遂に提出しなかった。証拠とされたのは、2人の医師の供述だけであるが、1人は、本件で問題とされた陰圧吸引脱血を用いた手術をした経験がなく、もう1人は心臓外科の専門医とは言えない一般外科医で人工心肺を操作したことのない者であった。さらに両者は、本件同様の小児心臓外科領域の胸骨部分縦切開の症例を経験したこともなかった。これらの者の証言は、医学的な裏付けがなく、独断あるいは狭い経験に基づき、「~と思う」というに過ぎないものであった(検察官弁論要旨〔以下同じ〕15頁)。
このため、検察官弁論要旨も、「~がないと断じることはできない」(12頁)、「~とも考えられる」(13頁)、「場合もありうる」(16頁)、「可能性もある」(16頁、21頁)、「可能性もないとは言えない」(18頁)と、単なる可能性の提示ないし推論に留まる表現を多数含むものとなっている。このような態度は、証明責任を検察官が負うという刑事裁判の根本原理を忘れたものというべきであると共に、医学的水準に基づく事実の確定を放棄したものと批判されてもやむを得ないものである。
「遺憾」と評さざるを得ない所以である。
以下、本件の事実を確定しながら、被告人が無罪であることを明らかにする。
第2 訴訟法的問題~無罪の原判決を破棄する証拠の不存在
1 フィルター閉塞の予見可能性に関する原判決の認定
原判決は、
「被告人につき、本件患者に対する業務上過失致死罪に係る過失責任を問うためには、その前提として、本件手術の際に用いられた人工心肺回路のうちの陰圧吸引回路にガスフィルターが設置されており、人工心肺を操作する際には、陰圧吸引回路内に発生した水滴等がガスフィルターに吸着し、ガスフィルターが閉塞することにより、壁吸引の吸引力が人工心肺回路内に伝わらなくなって、回路内が陽圧の状態になり、脱血不能の状態に立ち至るという一連の機序につき、被告人において予見することが可能であったと認められることが必要である」
とした(原判決37頁)。
その上で、原判決は被告人の供述を検討し、被告人が本件事故当時、
「フィルターが取り付けられていたこと自体は知っていたものの、そのフィルターの性質についての認識は全くなく、したがって、手術中に人工心肺回路内に結露が生じているのを見た経験はあっても、そのような状況でフィルター閉塞の危険性と結び付けて考えたことがなかったことは明らかである」
とした(原判決39頁)。
進んで、原判決は、被告人以外の心研関係者(E技士、S技士、O医師、M医師、B博士、T技士、N技士)や、その余の医療関係者(N医師、N医師)らの供述を詳細に検討し、その結果、
「本件事故当時の臨床医療の一般水準という観点から、N医師やN医師の各供述を検討してみても、本件事故当時、被告人において、本件事故で問題となっているガスフィルター閉塞の危険性を予見し得たかどうかについては、これを積極に解することは困難であるというほかない」
と判断した(原判決44頁)。特に、原判決は、この結論を出すにあたって、検察側証人である南淵医師の証言を詳細に分析し、その真意を確認した上で、上記の結論を導いた。
2 地裁の無罪判決を控訴審で破棄することに関する最高裁判決
最高裁1956年7月18日大法廷判決(刑集10巻7号1147頁)は、
第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が何ら事実の取調をすることなく、第一審判決を破棄し、訴訟記録並びに第一審裁判所において取り調べた証拠のみによって、直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴第400条但書の許さないところである
と判示した。
さらに、最高裁1959年5月22日第二小法廷判決(刑集13巻5号773頁)は、
第一審判決が起訴にかかる第一の(一)ないし(五)の各収賄の公訴事実中(三)の所為につき犯罪の証明がないとして被告人に対し無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が右判決を破棄し、右(三)の所為につき被告人の職務権限について事実の取調をしただけで、事件の核心をなす金員の授受自体についてなんら事実の取調を行うことなく、訴訟記録及び第一審で取り調べた証拠のみによって、犯罪事実の存在を確定し、有罪の判決をすることは、刑訴第400条但書の許さないところである
と判示した。
このように、最高裁は、控訴審が、一審の無罪判決を破棄して有罪判決を下す場合には、控訴審において独自の証拠調べをしなければならないと判示しているのであり、特に1959年判決は、有罪判決を下すために控訴審は、「事件の核心」について事実の取調べをしなければならないことを命じている。
しかも、これについては、形式的に新規証拠の取調べを行ったことに藉口して全く新たな事実認定をすることは許されないところである。1959年最高裁判決は、控訴審がこのような取調べしか行っていないときに、一審判決を破棄することは許されないと判示しているのである(「最高裁判所判例解説 刑事編 昭和34年度」192頁、特に194~195頁参照)。
3 フィルター閉塞の予見可能性に関する当審の証拠
上記のとおり、原判決は被告人にフィルター閉塞の予見可能性がないことを理由として無罪判決を下したのであるから、これを破棄するためには、「事件の核心」である、この予見可能性について新たな証拠調べを行い、これによってフィルター閉塞の予見可能性が認められることが必要である。
しかし、当審においてこれについて調べられた証拠は、原審でも証言した南淵医師の証言だけである。しかも、南淵医師は、本件手術とは何ら関係していないのであり、その証言は、心臓外科手術の経験を有する医師(但し、陰圧吸引補助脱血法を用いた経験はない)として、そのような医師であれば通常有するであろう一般的認識を述べるに留まるものであるから、原審段階と当審段階でその供述が異なるということは凡そ考えられない(現に、以下に述べるとおり、当審において南淵医師は、フィルター閉塞を予見しえたかの点について、原審での供述をすべて再確認している)。
したがって、南淵医師の供述は、フィルター閉塞の予見可能性という原判決の核心を成す論点についての新たな証拠と見ることはできない。このような場合に、無罪の原判決を破棄して有罪にすることができないのは、上に引用した最高裁判決が命じるところである。
実際の証言をみても、南淵医師は、地裁判決の該当部分を読み上げ、今の認識も変わりがないかと質問されたのに対し、全てにおいて「今もそのとおりである」旨を述べている(南淵・第5回・68~70頁)のであり、新たな証拠と評価されるべきものではない。
なお、同医師は、これと並んで、医師としてはフィルターが詰まることを認識すべきであるという、「べき」論を述べているが(南淵・第2回・55頁)、そのように認識すべき根拠としては、「そのフィルターが何を除去する目的であろうが・・・どういった形状であろうが、フィルターがそこにあること自体、それがしばらく交換されていないものなのか、あるいは出したばかりの新品であろうが、関係なく、新品だって不具合の製品もあるわけで、そういうことからしてフィルターがあること自体において、そのフィルターが目詰まりをする可能性があるということは認識すべきだったんではないかと思います」(南淵・第2回・56頁)、「フィルターがそこにあるということはフィルターが何らかの理由で詰まって、従来の、そこの、要するに吸引脱血ですから空気ですね、空気の通りを妨げるかもしれないということは当然想定すべきだった」(南淵・第2回・60頁)というものに過ぎない。
このように、南淵医師が述べているのは、フィルターというものが存在する以上、それが詰まることは当然に想定しうるという、ある意味では当たり前のことを述べているに過ぎない。水蒸気がフィルターを通過したら閉塞するのか、水滴がフィルターを通過したら閉塞するのか、それを予見できたのかという、原判決が無罪判決の根拠としたポイントについては何も述べていないに等しいものである。これらの点については、上に述べたとおり、地裁における「詰まるのか詰まらないのか、どの程度で、じゃあ、詰まるのかということに関しての、実際の予測に関しては、事前には全く分からない、想像の域を出ない、つまり、詰まったとしても不思議はないし、いや、水蒸気、がんがん流れていきましたけど、フィルターは全く詰まらなかったですよというふうな事態が起こったとしても、ああ、それはそういうものなのかなというふうに考えるであろう」(南淵・原審第45回・18頁)等の供述を、南淵医師はそのまま維持しているのである。
そして、南淵医師自身も、自らの地裁での証言は「全く今日と同じ趣旨で言ったと思います」(南淵・第2回・58頁)と述べているとおり、フィルター閉塞の予見可能性に関しては、同医師の地裁証言と高裁証言は同一のものであることを認めている。
4 小括
以上のとおり、フィルター閉塞の予見可能性について、原判決はこれを否定して被告人を無罪としたものであるところ、当審において、この核心部分に関する新規の証拠は提出されていない。
南淵医師の証言は、同医師が自ら認めるとおり、地裁での証言と同一である。これに依拠して被告人にフィルター閉塞の予見可能性を認めることは、実質的に、事後審査審である控訴裁判所が、同一の証拠について別異の解釈を施すことと同様であり、これが禁止されていることは、上に引用した最高裁判決から明らかである。
よって、その余の点について論ずるまでもなく、原判決が維持されるべきである。
第3 実体的問題 その1~患者の死亡原因
1 序
詳細省略
2 死亡原因に関する弁護側の主張とその根拠
(1) 死亡原因の要旨
詳細省略
(2) 上大静脈症候群によって脳障害が生じること
上大静脈症候群によって脳障害が生じることは、基本的な医学文献にも記載されており、複数の医師も指摘している。
すなわち、「セーフティテクニック 心臓手術アトラス」には、
脱血管の過剰挿入
上大静脈への脱血管過剰挿入は奇静脈や無名静脈の血流障害を惹起し、上半身からの静脈灌流を阻害するおそれがある。上大静脈圧を常にモニターしておけば圧の上昇がとらえられ、外科医に注意を喚起することができる。通常脱血管を少し動かすだけで血流障害は解除されるが、さもないと中枢神経がうっ血して脳障害を起こす危険性がある。
との記載がある(当審弁13・27頁)。
(3) 上大静脈症候群に気づかないことがあること(以下、一部詳細省略、項目のみ)
(4) 本件では上大静脈症候群が生じていたと考えられること
(5) 本件手術における脱血管の位置と上大静脈症候群の発生
(6) 検察官の批判はあたらないこと
ア 南淵医師
イ 藤崎医師
ウ MICSにおけるダイレクトカニュレーションの困難性
エ 術野担当医師の確認方法の問題点
オ 弁護側証人に対する検察官の批判
カ その他
キ 小括
以上のとおり、検察官の批判はいずれも失当である。そもそも医学の教科書に指摘されている事実を、小児の手術や小切開の手術経験が乏しい2名の外科医師が疑問視していること等から否定できるものでない。
3 検察官主張は成立しえないこと
4 下半身のうっ血症状の不存在
5 虚血は原因にならないこと
6 小括
第4 実体的問題 その2~フィルター閉塞の予見可能性
1 序
本件回路に設置されていたフィルターが閉塞する可能性があることを予見しえたかについて、原判決は、心研の臨床工学技士及び医師(E,S,O,M,B,T,N各証人)の供述、それまで心研においてフィルターと水滴との関係について注意を喚起するような方策が講じられていなかったこと、心研以外の医療関係者の供述、さらには当時の日本全国の施設でフィルターを設置している割合などを詳細に検討したうえで、陰圧回路にこのフィルターを取り付けた人工心肺が危険で瑕疵のある構造のものであることを認識し、対処すべき注意義務が、佐藤医師にあったとはいえないとした。
原判決は、このように、原審に現れた全ての証拠を的確に分析し、上記のような結論を導いたものであって、検討の方法もその結果も適正なものである。
これに対し、検察官は、控訴審において、この点に関する新証拠と呼びうるものを何も提出していない。書証は水蒸気の液化に関する一般論でしかなく、陰圧吸引回路に設置されたフィルターを閉塞させる機序を述べるものではなく、ましてフィルター閉塞の予見可能性と結びつくものではない。この点に関する唯一の証人である南淵医師は、後に見るとおり、基本的に原審の供述をそのまま維持しているのであり、原判決の認定を覆すに足るものではない。
したがって、実体面に踏み込んで考察した場合であっても、佐藤医師にフィルター閉塞の予見可能性が認められないのは当然である。
以下、検察官弁論要旨に触れながら、原判決の認定が正しいことを明らかにする。
2 心研の臨床工学技士等がフィルター閉塞を予見していなかったこと
(1) フィルター導入の経緯
(2) 臨床工学技士の認識
(3) 佐藤医師が臨床工学技士からフィルター閉塞の危険性を伝えられることはありえないこと
以上のように、本件回路におけるフィルターは臨床工学技士が設置を決めたものであり、その後も、臨床工学技士がその閉塞の可能性を認識することはなかった。
検察官は、「被告人は、心臓外科医師であり本件人工心肺装置の操作を行う立場にあったから、本件人工心肺装置の基本的構造や取り扱い上の注意について、少なくとも臨床工学技士との意見交換などを通じて知識の涵養を図り、その過程で本件フィルターについて尋ねるなどする必要があり、これを行っていれば、本件フィルターがガスフィルターであり、水滴を吸着して閉塞する可能性があることを容易に認識できたにもかかわらず、それらのことさえ怠っていた」(検察官弁論要旨29頁)と主張する。
しかし、上記のとおり臨床工学技士自身、本件フィルターが水滴で閉塞する可能性があるなどと考えていなかったのであるから、たとえ佐藤医師が臨床工学技士と陰圧吸引回路について話したとしても、これらの者が佐藤医師に本件フィルターが水滴で詰まる可能性があるなどと言うはずはない。さらに、陰圧吸引回路にフィルターが新たに設置されたとしても、そのことによって、人工心肺装置の操作に何らかの変化が生じるものでもないから、佐藤医師が臨床工学技士と話をする機会があったとしても、フィルターについて話が及ぶということ自体が考えにくいところである。
いずれにせよ、「被告人は、臨床工学技士から本件フィルター閉塞の可能性を学ぶことができた」とする検察官の立論は、臨床工学技士がそのような認識を有していないのであるから、前提を欠くものである。
3 陰圧吸引脱血の利用時間が短いためにフィルター閉塞の危険性を認識しなかったわけではないこと
(1) 陰圧吸引脱血法が短時間しか利用しないものではないこと
(2) 仮に短時間の利用であっても、そのことのためにフィルターの閉塞の可能性がないものではない
(3) 陰圧吸引脱血を、吸引ポンプ100回転、1時間半という利用をすることとフィルター閉塞の認識は結びつかない
4 陰圧吸引回路にフィルターを用いる施設は多数存在していた
(1) 大阪大学の回路
(2) 日本の施設のフィルター利用状況
大阪大学の回路図の影響もあってか、本件手術当時、陰圧吸引回路にフィルターを入れることは例外的なことでなかった。このことは、3学会が行った日本胸部外科学会認定施設・関連施設に対するアンケートで、約35%の施設がフィルター(但し、種類は不明である)を吸引ラインに入れていた(原審弁25・8頁)ことから明らかである。
3学会が「陰圧吸引補助ラインにはガスフィルターを使用せず、ウォータートラップを装着する」と勧告し、陰圧吸引回路中でのガスフィルターの使用を直ちに中止するよう求めたのも(原審弁25・25頁)、ガスフィルターの使用が相当広範囲で行われているという現実に対処するためである。
5 本件回路の構造によりフィルターが閉塞することは考えられていなかった
(1) フィルターの位置
(2) 同一構造の回路を用いた実験ではフィルターは閉塞していない
(3) 3学会の実験
6 南淵医師の供述は、佐藤医師にフィルター閉塞の予見可能性があったと認識させるものではない
(1) 回路組立てによってフィルターの危険性は認識できない
(2) 南淵医師の供述は、フィルター閉塞を予見することが不可能であることを裏づけている
南淵医師は、原審において、
(フィルターの特性とかを考えてこういう事態になることが予測できるか?)「医学的知識を持って通常に考えて、絶対にこんなものは水を通さないというふうに、今日思うかもしれないけど、あしたは思わないかもしれないというふうなレベル」(南淵・原審第45回・30頁)
(結露によって詰まってしまうということは予測できたと思いますか?)「正直申し上げて、ないと思います」(南淵・原審第45回・31頁)
(落差脱血が効くのかどうか?)「どの程度の落差が機能するか、あるいは全くしないのか、これはだれにも予測つかない状況になる」(南淵・原審第45回・33頁)
(フィルターが詰まった後、どうなるか?)「正確に、あるいは常識として、必ず詰まるんだというふうな結論をみんなが持ったとは思いません。いや、結露して完全に閉塞して詰まったんだよというふうなことに対して、ああ、それはそうだね、当然そういうことが起こるだろうねというふうな認識はみんな持ったと思います」(南淵・原審第45回・33~34頁)
(水を通すかどうか?)「実際の予測に関しては、事前には全く分からない、想像の域を出ない、つまり、詰まったとしても不思議はないし、いや、水蒸気、がんがん流れていきましたけど、フィルターは全く詰まらなかったですよというふうな事態が起こったとしても、ああ、それはそういうものなのかなというふうに考えるであろう」(南淵・原審第46回・18頁)
と供述しているのであり、当審においても、これらの原審供述をすべて肯定している(南淵・第5回・68~70頁)。
結局、南淵医師の供述を素直に理解すれば、水蒸気や水滴がフィルターを通過するかどうかを事前に予測することはできなかったし、本件事故があったことを踏まえて振り返ってみれば、水滴によってフィルターが閉塞するとされても、それを奇異に感じることはないということに過ぎない。
これをもって、佐藤医師がフィルター閉塞の可能性を認識しえたとすることができないことは明らかである。
当然のことながら、南淵医師は、当審において、フィルター閉塞の認識可能性について新たな証言をしているわけではない。同医師は、陰圧吸引回路を利用した手術の経験がないのであるから、フィルター閉塞の認識可能性に関する証言は、単なる推測に留まるものである。その内容が地裁と高裁で変化することはありえないし、現に、証言を見ても実質的な変化はない。したがって、同医師の高裁証言の内容にわたって検討した場合であっても、佐藤医師の過失を基礎づける事実を認定できるものではない。
なお、検察官は、南淵医師が、不測の事態に備えることこそが重要であるとして、当審第2回の48~49頁を引用する(検察官弁論要旨35頁)。当該箇所の南淵医師の供述をそのようにまとめられるかについては疑問があるが、「不測の事態に備えることこそが重要」というのが、どんな稀有の状況にも備えなければならないということを意味するのであれば、これは精神論ないし心構えの話であり、刑事事件における過失の存否の認定において依拠すべき原理ではない。これが認められるのであれば、すべての状況において過失が認められることとなるのである。
検察官が引用した上記の箇所で南淵医師が述べているのは、「フィルターというのは詰まる可能性のあるものです。ということからすると、やはりそこの場所にフィルターがあるということ自体詰まる可能性を想定すべき」(南淵・第2回・55頁)というものであり、これは、裁判長が述べるとおり、「一般的」な話に過ぎない。
次いで、裁判長が、「水蒸気によって、水滴によってフィルターが詰まって陽圧化するという、そこら辺りは予想できたんでしょうか」と尋ねても、同医師は、「ガスフィルターは水蒸気によって詰まるかもしれないという認識は持つべきであったと思うわけです」「べき論から語るとそういったことになると思う」「問題の認識を当然持つべきであったと思います」「掃除機やあるいはエアコンなど家電製品にもあるフィルターというのは必ず目詰まりを起こすわけですね」「フィルターがあること自体において、そのフィルターが目詰まりをする可能性があるということは認識すべきだったんではないかと思います」(南淵・第2回・55~56頁)と、最後まで「フィルターは詰まる可能性があるという認識を持つべき」という「べき論」を述べ、「予想できたのか」という裁判長の質問に正面から答えようとしていない。
フィルター閉塞の予見可能性について、検察官が唯一の証人として、原審に続いて、当審においても供述を求めた南淵医師がこのようにしか答えられないことこそ、「フィルターが水滴によって閉塞し陽圧化することは予想できなかった」ことの何よりの証左である。
7 小括
以上のとおり、心研において、フィルター付近に水滴があるところを見た者もいなかったし、フィルターが水滴によって閉塞することを予見した者もいなかった。
さらには、日本全体を見ても、フィルターの使用は決して例外的なものではなかった。
このような状況において、当時の大学病院における医学水準として、フィルターが水滴によって閉塞する可能性を予見しえたということはありえないし、佐藤医師においてこれを予見すべきであったといえないことも明らかである。
第5 結論
冒頭に述べたとおり、本件における検察官の主張、立証は、医学的水準に立脚した事実の解明にほど遠いものであった。
検察官は、非科学的な東京女子医大の報告書に安易に立脚し、その論理と結論を無批判に受け入れた。このことは、学会で全く支持されることがなかった「吸引ポンプの回転数を上げたことが陽圧をもたらした」との結論、さらには物理学の初歩も弁えない「圧の(不)等式」が東京女子医大の報告書と検察官の冒頭陳述要旨だけに現れていることからも明白である(報告書〔甲17添付〕14頁、12頁、冒頭陳述要旨6~7頁)。
医学の水準を無視し、それどころか自然科学の考え方すら無視するという非科学的な捜査、起訴によって、佐藤医師は、6年半以上にわたって被疑者、被告人の地位に止め置かれ、また、医師に対する業務上過失致死罪としては異例の逮捕までされ、90日間にわたって身柄拘束までされたのであり、家族を含めこれによる苦痛は厳しいものがある。検察官は、これについて真摯に反省すべきである。
しかも、検察官による過誤による被害を受けたのは佐藤医師とその家族だけではない。事案の真相が明らかになることを望む患者家族と社会も、佐藤医師の無罪が確定すれば、本件手術の責任を誰が負うのかという点について何らの回答も与えられないこととなる。このような状態をもたらした検察官は、その捜査と公判について真剣に反省すべきである。
本件におけるこのような社会的意味合いとは別に、刑事裁判は、法と証拠のみによって判断されるべきである。貴裁判所が、本件に現れた全ての証拠を吟味すれば、そこから生まれる結論は一つしかない。
佐藤医師は無罪である。
以上
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