刑事事件 資料

2009年3月10日 (火)

刑事事件 控訴審判決 

1.控訴審判決を前に

私が起訴された刑事事件の判決を前に、このブログを初めて閲覧された方もいらっしゃるかと思います。複雑なので、概要を把握するのが困難な場合は、日経メディカル2008年7月号を閲覧されるとよいと思います。

「200807.pdf」をダウンロード

これで、概要が把握できて、詳細を知りたい場合は、

2008年6月 5日 (木) ブログ「紫色の顔の友達を助けたい」

「資料⑪「東京女子医大事件とは⇒東京女子医大事件の概略 時系列」

http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_a866.html

等、「刑事事件 資料」のカテゴリーを閲覧されるとよいと思います。

2009年3月27日13時30分いよいよ控訴審判決です。刑事事件一審では、判決前に検察官の「論告求刑」に対して弁護側は、「弁論」を行います。これに対して、控訴審の判決前は、検察側も「弁論」(2008年12月17日)、弁護側も「弁論」(2008年12月24日)を行いました。この弁護側の「弁論」全91頁の最後1頁が印象的です。

2.最後の1頁

「佐藤医師は無罪である。以上」だけ。

これは、90頁の「第5 結論」が1頁分で収まるところをあえて最後のページをめくるとこの一文が出る仕組みになっています。その、第5 結論の内容も重要です。

「第5 結論

    冒頭に述べたとおり、本件における検察官の主張、立証は、医学的水準に立脚した事実の解明にほど遠いものであった。

   検察官は、非科学的な東京女子医大の報告書に安易に立脚し、その論理と結論を無批判に受け入れた。このことは、学会で全く支持されることがなかった「吸引ポンプの回転数を上げたことが陽圧をもたらした」との結論、さらには物理学の初歩も弁えない「圧の(不)等式」が東京女子医大の報告書と検察官の冒頭陳述要旨だけに現れていることからも明白である(報告書〔甲17添付〕14頁、12頁、冒頭陳述要旨6~7頁)。

    医学の水準を無視し、それどころか自然科学の考え方すら無視するという非科学的な捜査、起訴によって、佐藤医師は、6年半以上にわたって被疑者、被告人の地位に止め置かれ、また、医師に対する業務上過失致死罪としては異例の逮捕までされ、90日間にわたって身柄拘束までされたのであり、家族を含めこれによる苦痛は厳しいものがある。検察官は、これについて真摯に反省すべきである。

    しかも、検察官による過誤による被害を受けたのは佐藤医師とその家族だけではない。事案の真相が明らかになることを望む患者家族と社会も、佐藤医師の無罪が確定すれば、本件手術の責任を誰が負うのかという点について何らの回答も与えられないこととなる。このような状態をもたらした検察官は、その捜査と公判について真剣に反省すべきである。

本件におけるこのような社会的意味合いとは別に、刑事裁判は、法と証拠のみによって判断されるべきである。貴裁判所が、本件に現れた全ての証拠を吟味すれば、そこから生まれる結論は一つしかない。」(90頁をめくって)

「佐藤医師は無罪である。以上」

という具合になっています。

3.本件手術の反省から

この9歳の女児が手術事故で亡くなったこと反省として、心臓外科医が発信しなくてはならないことに、以下の3つがあります。

1.MICS(第二肋骨までの部分縦切開)で、SVCの直接カニュレーションは、行わない。⇒奇静脈等への誤挿入や、術中位置異常が発生し、SVC症候群を惹起する可能性があります。

2.人工心肺の完全体外循環(トータルバイパス)中に脱血不良が発生して、脱血管の位置修正などを行っても改善しない場合は、上下大静脈の両方のテープを緩めて確実にパーシャルバイパスにして、吸引回し(サクション回し)を行う。

⇒下大静脈のみをパーシャルバイパスにして上大静脈をトータルバイパスにした場合、特に脱血管をクランプしてしまうと、上半身に送血したものがうっ血してしまいます。

3.陰圧吸引回路は滅菌された新しい回路を設置し、フィルターを設置しない。貯血槽には、圧力モニターと陽圧防止弁を設置する。

⇒すでに、日本心臓血管外科学会、日本胸部外科学会、日本人工臓器学会が厚生労働省と通じて勧告しています。

2度と本件のような事故が発生しないために、上記、再発防止策を重視するべきです。

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2008年12月24日 (水)

控訴審 弁論要旨概要

弁論要旨(全91頁)

 (全文は詳細で水ももらさない弁論でですが、心臓外科の専門知識や法律専門知識(特に刑事訴訟法)の基礎がないと、理解を超えそうな部分は相当量を削除ないし省略して大項目のみとした箇所があります。)

まず、「第1」と「第5」のみを閲覧してみてください。

第1 序

1 判決にあたっての要望

   原審の弁論において、被告人・弁護人は、裁判所に対し、判決にあたっては、

・ 事案の真相を明らかにすべきこと

   ・ 医学水準に立脚した認定を行うべきこと

  の2点を要望した。

   今、原判決から3年余を経て、事実審の審理を終えるにあたり、被告人・弁護人は、再びこの2点を裁判所に要望しておきたい。

   私たちは、原審以来、「本件手術の日に何が起こったか」という事実を再構築し、その上に立って、「患者はなぜ死亡したのか」「患者の死亡に責任を負うのは誰か」を明らかにしてきた。

   その結果、私たちは、本件が検察官の主張するような被告人の過失に基づくものではないことを疑問の余地なく証明した。原審も、これを真実として受け入れ、被告人に対して無罪を言い渡した。

当審においても、私たちの姿勢には変わりがない。医学水準に則って事実を探求すれば、必ず真実が明らかになるとの確信にはいささかの揺らぎもない。これまで私たちが明らかにした事実は、以下に述べるとおりであり、裁判の結論としては、原判決の維持以外にはありえないものである。

2 検察官の態度

   これに対し、本件における検察官の主張、立証は、遺憾ながら、これとは相反するものであった。

   当審の審理で焦点となった患者の死亡原因が何であるかについて、検察官は、その主張の裏付けとなる医学論文、専門書を遂に提出しなかった。証拠とされたのは、2人の医師の供述だけであるが、1人は、本件で問題とされた陰圧吸引脱血を用いた手術をした経験がなく、もう1人は心臓外科の専門医とは言えない一般外科医で人工心肺を操作したことのない者であった。さらに両者は、本件同様の小児心臓外科領域の胸骨部分縦切開の症例を経験したこともなかった。これらの者の証言は、医学的な裏付けがなく、独断あるいは狭い経験に基づき、「~と思う」というに過ぎないものであった(検察官弁論要旨〔以下同じ〕15頁)。

   このため、検察官弁論要旨も、「~がないと断じることはできない」(12頁)、「~とも考えられる」(13頁)、「場合もありうる」(16頁)、「可能性もある」(16頁、21頁)、「可能性もないとは言えない」(18頁)と、単なる可能性の提示ないし推論に留まる表現を多数含むものとなっている。このような態度は、証明責任を検察官が負うという刑事裁判の根本原理を忘れたものというべきであると共に、医学的水準に基づく事実の確定を放棄したものと批判されてもやむを得ないものである。

   「遺憾」と評さざるを得ない所以である。

   以下、本件の事実を確定しながら、被告人が無罪であることを明らかにする。


第2 訴訟法的問題~無罪の原判決を破棄する証拠の不存在

1 フィルター閉塞の予見可能性に関する原判決の認定

   原判決は、

「被告人につき、本件患者に対する業務上過失致死罪に係る過失責任を問うためには、その前提として、本件手術の際に用いられた人工心肺回路のうちの陰圧吸引回路にガスフィルターが設置されており、人工心肺を操作する際には、陰圧吸引回路内に発生した水滴等がガスフィルターに吸着し、ガスフィルターが閉塞することにより、壁吸引の吸引力が人工心肺回路内に伝わらなくなって、回路内が陽圧の状態になり、脱血不能の状態に立ち至るという一連の機序につき、被告人において予見することが可能であったと認められることが必要である」

  とした(原判決37頁)。

その上で、原判決は被告人の供述を検討し、被告人が本件事故当時、

「フィルターが取り付けられていたこと自体は知っていたものの、そのフィルターの性質についての認識は全くなく、したがって、手術中に人工心肺回路内に結露が生じているのを見た経験はあっても、そのような状況でフィルター閉塞の危険性と結び付けて考えたことがなかったことは明らかである」

とした(原判決39頁)。

   進んで、原判決は、被告人以外の心研関係者(E技士、S技士、O医師、M医師、B博士、T技士、N技士)や、その余の医療関係者(N医師、N医師)らの供述を詳細に検討し、その結果、

「本件事故当時の臨床医療の一般水準という観点から、N医師やN医師の各供述を検討してみても、本件事故当時、被告人において、本件事故で問題となっているガスフィルター閉塞の危険性を予見し得たかどうかについては、これを積極に解することは困難であるというほかない」

と判断した(原判決44頁)。特に、原判決は、この結論を出すにあたって、検察側証人である南淵医師の証言を詳細に分析し、その真意を確認した上で、上記の結論を導いた。

2 地裁の無罪判決を控訴審で破棄することに関する最高裁判決

  最高裁1956年7月18日大法廷判決(刑集10巻7号1147頁)は、

第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が何ら事実の取調をすることなく、第一審判決を破棄し、訴訟記録並びに第一審裁判所において取り調べた証拠のみによって、直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴第400条但書の許さないところである

と判示した。

  さらに、最高裁1959年5月22日第二小法廷判決(刑集13巻5号773頁)は、

第一審判決が起訴にかかる第一の(一)ないし(五)の各収賄の公訴事実中(三)の所為につき犯罪の証明がないとして被告人に対し無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が右判決を破棄し、右(三)の所為につき被告人の職務権限について事実の取調をしただけで、事件の核心をなす金員の授受自体についてなんら事実の取調を行うことなく、訴訟記録及び第一審で取り調べた証拠のみによって、犯罪事実の存在を確定し、有罪の判決をすることは、刑訴第400条但書の許さないところである

と判示した。

このように、最高裁は、控訴審が、一審の無罪判決を破棄して有罪判決を下す場合には、控訴審において独自の証拠調べをしなければならないと判示しているのであり、特に1959年判決は、有罪判決を下すために控訴審は、「事件の核心」について事実の取調べをしなければならないことを命じている。

しかも、これについては、形式的に新規証拠の取調べを行ったことに藉口して全く新たな事実認定をすることは許されないところである。1959年最高裁判決は、控訴審がこのような取調べしか行っていないときに、一審判決を破棄することは許されないと判示しているのである(「最高裁判所判例解説 刑事編 昭和34年度」192頁、特に194~195頁参照)。

3 フィルター閉塞の予見可能性に関する当審の証拠

   上記のとおり、原判決は被告人にフィルター閉塞の予見可能性がないことを理由として無罪判決を下したのであるから、これを破棄するためには、「事件の核心」である、この予見可能性について新たな証拠調べを行い、これによってフィルター閉塞の予見可能性が認められることが必要である。

   しかし、当審においてこれについて調べられた証拠は、原審でも証言した南淵医師の証言だけである。しかも、南淵医師は、本件手術とは何ら関係していないのであり、その証言は、心臓外科手術の経験を有する医師(但し、陰圧吸引補助脱血法を用いた経験はない)として、そのような医師であれば通常有するであろう一般的認識を述べるに留まるものであるから、原審段階と当審段階でその供述が異なるということは凡そ考えられない(現に、以下に述べるとおり、当審において南淵医師は、フィルター閉塞を予見しえたかの点について、原審での供述をすべて再確認している)。

したがって、南淵医師の供述は、フィルター閉塞の予見可能性という原判決の核心を成す論点についての新たな証拠と見ることはできない。このような場合に、無罪の原判決を破棄して有罪にすることができないのは、上に引用した最高裁判決が命じるところである。

   実際の証言をみても、南淵医師は、地裁判決の該当部分を読み上げ、今の認識も変わりがないかと質問されたのに対し、全てにおいて「今もそのとおりである」旨を述べている(南淵・第5回・68~70頁)のであり、新たな証拠と評価されるべきものではない。

   なお、同医師は、これと並んで、医師としてはフィルターが詰まることを認識すべきであるという、「べき」論を述べているが(南淵・第2回・55頁)、そのように認識すべき根拠としては、「そのフィルターが何を除去する目的であろうが・・・どういった形状であろうが、フィルターがそこにあること自体、それがしばらく交換されていないものなのか、あるいは出したばかりの新品であろうが、関係なく、新品だって不具合の製品もあるわけで、そういうことからしてフィルターがあること自体において、そのフィルターが目詰まりをする可能性があるということは認識すべきだったんではないかと思います」(南淵・第2回・56頁)、「フィルターがそこにあるということはフィルターが何らかの理由で詰まって、従来の、そこの、要するに吸引脱血ですから空気ですね、空気の通りを妨げるかもしれないということは当然想定すべきだった」(南淵・第2回・60頁)というものに過ぎない。

   このように、南淵医師が述べているのは、フィルターというものが存在する以上、それが詰まることは当然に想定しうるという、ある意味では当たり前のことを述べているに過ぎない。水蒸気がフィルターを通過したら閉塞するのか、水滴がフィルターを通過したら閉塞するのか、それを予見できたのかという、原判決が無罪判決の根拠としたポイントについては何も述べていないに等しいものである。これらの点については、上に述べたとおり、地裁における「詰まるのか詰まらないのか、どの程度で、じゃあ、詰まるのかということに関しての、実際の予測に関しては、事前には全く分からない、想像の域を出ない、つまり、詰まったとしても不思議はないし、いや、水蒸気、がんがん流れていきましたけど、フィルターは全く詰まらなかったですよというふうな事態が起こったとしても、ああ、それはそういうものなのかなというふうに考えるであろう」(南淵・原審第45回・18頁)等の供述を、南淵医師はそのまま維持しているのである。

そして、南淵医師自身も、自らの地裁での証言は「全く今日と同じ趣旨で言ったと思います」(南淵・第2回・58頁)と述べているとおり、フィルター閉塞の予見可能性に関しては、同医師の地裁証言と高裁証言は同一のものであることを認めている。

4 小括

以上のとおり、フィルター閉塞の予見可能性について、原判決はこれを否定して被告人を無罪としたものであるところ、当審において、この核心部分に関する新規の証拠は提出されていない。

南淵医師の証言は、同医師が自ら認めるとおり、地裁での証言と同一である。これに依拠して被告人にフィルター閉塞の予見可能性を認めることは、実質的に、事後審査審である控訴裁判所が、同一の証拠について別異の解釈を施すことと同様であり、これが禁止されていることは、上に引用した最高裁判決から明らかである。

よって、その余の点について論ずるまでもなく、原判決が維持されるべきである。


第3 実体的問題 その1~患者の死亡原因

1 序

 詳細省略

2 死亡原因に関する弁護側の主張とその根拠

(1)      死亡原因の要旨

詳細省略

(2) 上大静脈症候群によって脳障害が生じること

 上大静脈症候群によって脳障害が生じることは、基本的な医学文献にも記載されており、複数の医師も指摘している。

すなわち、「セーフティテクニック 心臓手術アトラス」には、

脱血管の過剰挿入

上大静脈への脱血管過剰挿入は奇静脈や無名静脈の血流障害を惹起し、上半身からの静脈灌流を阻害するおそれがある。上大静脈圧を常にモニターしておけば圧の上昇がとらえられ、外科医に注意を喚起することができる。通常脱血管を少し動かすだけで血流障害は解除されるが、さもないと中枢神経がうっ血して脳障害を起こす危険性がある。

との記載がある(当審弁13・27頁)。

(3) 上大静脈症候群に気づかないことがあること(以下、一部詳細省略、項目のみ)

(4) 本件では上大静脈症候群が生じていたと考えられること

(5)      本件手術における脱血管の位置と上大静脈症候群の発生

(6) 検察官の批判はあたらないこと

ア 南淵医師

イ 藤崎医師

ウ MICSにおけるダイレクトカニュレーションの困難性

エ 術野担当医師の確認方法の問題点

オ 弁護側証人に対する検察官の批判

カ その他

キ 小括

以上のとおり、検察官の批判はいずれも失当である。そもそも医学の教科書に指摘されている事実を、小児の手術や小切開の手術経験が乏しい2名の外科医師が疑問視していること等から否定できるものでない。

3 検察官主張は成立しえないこと

4 下半身のうっ血症状の不存在

5 虚血は原因にならないこと

6 小括


第4 実体的問題 その2~フィルター閉塞の予見可能性

1 序

  本件回路に設置されていたフィルターが閉塞する可能性があることを予見しえたかについて、原判決は、心研の臨床工学技士及び医師(E,S,O,M,B,T,N各証人)の供述、それまで心研においてフィルターと水滴との関係について注意を喚起するような方策が講じられていなかったこと、心研以外の医療関係者の供述、さらには当時の日本全国の施設でフィルターを設置している割合などを詳細に検討したうえで、陰圧回路にこのフィルターを取り付けた人工心肺が危険で瑕疵のある構造のものであることを認識し、対処すべき注意義務が、佐藤医師にあったとはいえないとした。

  原判決は、このように、原審に現れた全ての証拠を的確に分析し、上記のような結論を導いたものであって、検討の方法もその結果も適正なものである。

  これに対し、検察官は、控訴審において、この点に関する新証拠と呼びうるものを何も提出していない。書証は水蒸気の液化に関する一般論でしかなく、陰圧吸引回路に設置されたフィルターを閉塞させる機序を述べるものではなく、ましてフィルター閉塞の予見可能性と結びつくものではない。この点に関する唯一の証人である南淵医師は、後に見るとおり、基本的に原審の供述をそのまま維持しているのであり、原判決の認定を覆すに足るものではない。

  したがって、実体面に踏み込んで考察した場合であっても、佐藤医師にフィルター閉塞の予見可能性が認められないのは当然である。

  以下、検察官弁論要旨に触れながら、原判決の認定が正しいことを明らかにする。

2 心研の臨床工学技士等がフィルター閉塞を予見していなかったこと

1) フィルター導入の経緯

2) 臨床工学技士の認識

3) 佐藤医師が臨床工学技士からフィルター閉塞の危険性を伝えられることはありえないこと

以上のように、本件回路におけるフィルターは臨床工学技士が設置を決めたものであり、その後も、臨床工学技士がその閉塞の可能性を認識することはなかった。

検察官は、「被告人は、心臓外科医師であり本件人工心肺装置の操作を行う立場にあったから、本件人工心肺装置の基本的構造や取り扱い上の注意について、少なくとも臨床工学技士との意見交換などを通じて知識の涵養を図り、その過程で本件フィルターについて尋ねるなどする必要があり、これを行っていれば、本件フィルターがガスフィルターであり、水滴を吸着して閉塞する可能性があることを容易に認識できたにもかかわらず、それらのことさえ怠っていた」(検察官弁論要旨29頁)と主張する。

しかし、上記のとおり臨床工学技士自身、本件フィルターが水滴で閉塞する可能性があるなどと考えていなかったのであるから、たとえ佐藤医師が臨床工学技士と陰圧吸引回路について話したとしても、これらの者が佐藤医師に本件フィルターが水滴で詰まる可能性があるなどと言うはずはない。さらに、陰圧吸引回路にフィルターが新たに設置されたとしても、そのことによって、人工心肺装置の操作に何らかの変化が生じるものでもないから、佐藤医師が臨床工学技士と話をする機会があったとしても、フィルターについて話が及ぶということ自体が考えにくいところである。

いずれにせよ、「被告人は、臨床工学技士から本件フィルター閉塞の可能性を学ぶことができた」とする検察官の立論は、臨床工学技士がそのような認識を有していないのであるから、前提を欠くものである。

3 陰圧吸引脱血の利用時間が短いためにフィルター閉塞の危険性を認識しなかったわけではないこと

1) 陰圧吸引脱血法が短時間しか利用しないものではないこと

(2)            仮に短時間の利用であっても、そのことのためにフィルターの閉塞の可能性がないものではない

3) 陰圧吸引脱血を、吸引ポンプ100回転、1時間半という利用をすることとフィルター閉塞の認識は結びつかない

4 陰圧吸引回路にフィルターを用いる施設は多数存在していた

1) 大阪大学の回路

2) 日本の施設のフィルター利用状況

大阪大学の回路図の影響もあってか、本件手術当時、陰圧吸引回路にフィルターを入れることは例外的なことでなかった。このことは、3学会が行った日本胸部外科学会認定施設・関連施設に対するアンケートで、約35%の施設がフィルター(但し、種類は不明である)を吸引ラインに入れていた(原審弁25・8頁)ことから明らかである。

3学会が「陰圧吸引補助ラインにはガスフィルターを使用せず、ウォータートラップを装着する」と勧告し、陰圧吸引回路中でのガスフィルターの使用を直ちに中止するよう求めたのも(原審弁25・25頁)、ガスフィルターの使用が相当広範囲で行われているという現実に対処するためである。

5 本件回路の構造によりフィルターが閉塞することは考えられていなかった

1) フィルターの位置

2) 同一構造の回路を用いた実験ではフィルターは閉塞していない

3) 3学会の実験

6 南淵医師の供述は、佐藤医師にフィルター閉塞の予見可能性があったと認識させるものではない

1) 回路組立てによってフィルターの危険性は認識できない

2) 南淵医師の供述は、フィルター閉塞を予見することが不可能であることを裏づけている

南淵医師は、原審において、

(フィルターの特性とかを考えてこういう事態になることが予測できるか?)「医学的知識を持って通常に考えて、絶対にこんなものは水を通さないというふうに、今日思うかもしれないけど、あしたは思わないかもしれないというふうなレベル」(南淵・原審第45回・30頁)

(結露によって詰まってしまうということは予測できたと思いますか?)「正直申し上げて、ないと思います」(南淵・原審第45回・31頁)

(落差脱血が効くのかどうか?)「どの程度の落差が機能するか、あるいは全くしないのか、これはだれにも予測つかない状況になる」(南淵・原審第45回・33頁)

(フィルターが詰まった後、どうなるか?)「正確に、あるいは常識として、必ず詰まるんだというふうな結論をみんなが持ったとは思いません。いや、結露して完全に閉塞して詰まったんだよというふうなことに対して、ああ、それはそうだね、当然そういうことが起こるだろうねというふうな認識はみんな持ったと思います」(南淵・原審第45回・33~34頁)

(水を通すかどうか?)「実際の予測に関しては、事前には全く分からない、想像の域を出ない、つまり、詰まったとしても不思議はないし、いや、水蒸気、がんがん流れていきましたけど、フィルターは全く詰まらなかったですよというふうな事態が起こったとしても、ああ、それはそういうものなのかなというふうに考えるであろう」(南淵・原審第46回・18頁)

と供述しているのであり、当審においても、これらの原審供述をすべて肯定している(南淵・第5回・68~70頁)。

結局、南淵医師の供述を素直に理解すれば、水蒸気や水滴がフィルターを通過するかどうかを事前に予測することはできなかったし、本件事故があったことを踏まえて振り返ってみれば、水滴によってフィルターが閉塞するとされても、それを奇異に感じることはないということに過ぎない。

   これをもって、佐藤医師がフィルター閉塞の可能性を認識しえたとすることができないことは明らかである。

   当然のことながら、南淵医師は、当審において、フィルター閉塞の認識可能性について新たな証言をしているわけではない。同医師は、陰圧吸引回路を利用した手術の経験がないのであるから、フィルター閉塞の認識可能性に関する証言は、単なる推測に留まるものである。その内容が地裁と高裁で変化することはありえないし、現に、証言を見ても実質的な変化はない。したがって、同医師の高裁証言の内容にわたって検討した場合であっても、佐藤医師の過失を基礎づける事実を認定できるものではない。

   なお、検察官は、南淵医師が、不測の事態に備えることこそが重要であるとして、当審第2回の48~49頁を引用する(検察官弁論要旨35頁)。当該箇所の南淵医師の供述をそのようにまとめられるかについては疑問があるが、「不測の事態に備えることこそが重要」というのが、どんな稀有の状況にも備えなければならないということを意味するのであれば、これは精神論ないし心構えの話であり、刑事事件における過失の存否の認定において依拠すべき原理ではない。これが認められるのであれば、すべての状況において過失が認められることとなるのである。

   検察官が引用した上記の箇所で南淵医師が述べているのは、「フィルターというのは詰まる可能性のあるものです。ということからすると、やはりそこの場所にフィルターがあるということ自体詰まる可能性を想定すべき」(南淵・第2回・55頁)というものであり、これは、裁判長が述べるとおり、「一般的」な話に過ぎない。

次いで、裁判長が、「水蒸気によって、水滴によってフィルターが詰まって陽圧化するという、そこら辺りは予想できたんでしょうか」と尋ねても、同医師は、「ガスフィルターは水蒸気によって詰まるかもしれないという認識は持つべきであったと思うわけです」「べき論から語るとそういったことになると思う」「問題の認識を当然持つべきであったと思います」「掃除機やあるいはエアコンなど家電製品にもあるフィルターというのは必ず目詰まりを起こすわけですね」「フィルターがあること自体において、そのフィルターが目詰まりをする可能性があるということは認識すべきだったんではないかと思います」(南淵・第2回・55~56頁)と、最後まで「フィルターは詰まる可能性があるという認識を持つべき」という「べき論」を述べ、「予想できたのか」という裁判長の質問に正面から答えようとしていない。

   フィルター閉塞の予見可能性について、検察官が唯一の証人として、原審に続いて、当審においても供述を求めた南淵医師がこのようにしか答えられないことこそ、「フィルターが水滴によって閉塞し陽圧化することは予想できなかった」ことの何よりの証左である。

7 小括

  以上のとおり、心研において、フィルター付近に水滴があるところを見た者もいなかったし、フィルターが水滴によって閉塞することを予見した者もいなかった。

  さらには、日本全体を見ても、フィルターの使用は決して例外的なものではなかった。

  このような状況において、当時の大学病院における医学水準として、フィルターが水滴によって閉塞する可能性を予見しえたということはありえないし、佐藤医師においてこれを予見すべきであったといえないことも明らかである。


第5 結論

   冒頭に述べたとおり、本件における検察官の主張、立証は、医学的水準に立脚した事実の解明にほど遠いものであった。

   検察官は、非科学的な東京女子医大の報告書に安易に立脚し、その論理と結論を無批判に受け入れた。このことは、学会で全く支持されることがなかった「吸引ポンプの回転数を上げたことが陽圧をもたらした」との結論、さらには物理学の初歩も弁えない「圧の(不)等式」が東京女子医大の報告書と検察官の冒頭陳述要旨だけに現れていることからも明白である(報告書〔甲17添付〕14頁、12頁、冒頭陳述要旨6~7頁)。

   医学の水準を無視し、それどころか自然科学の考え方すら無視するという非科学的な捜査、起訴によって、佐藤医師は、6年半以上にわたって被疑者、被告人の地位に止め置かれ、また、医師に対する業務上過失致死罪としては異例の逮捕までされ、90日間にわたって身柄拘束までされたのであり、家族を含めこれによる苦痛は厳しいものがある。検察官は、これについて真摯に反省すべきである。

   しかも、検察官による過誤による被害を受けたのは佐藤医師とその家族だけではない。事案の真相が明らかになることを望む患者家族と社会も、佐藤医師の無罪が確定すれば、本件手術の責任を誰が負うのかという点について何らの回答も与えられないこととなる。このような状態をもたらした検察官は、その捜査と公判について真剣に反省すべきである。

本件におけるこのような社会的意味合いとは別に、刑事裁判は、法と証拠のみによって判断されるべきである。貴裁判所が、本件に現れた全ての証拠を吟味すれば、そこから生まれる結論は一つしかない。

   佐藤医師は無罪である。

                                              以上

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一粒の麦:控訴審:最終陳述

2008年のクリスマスイブで私の刑事事件控訴審は結審しました。

結審とは、弁護側の最終弁論が終了したことを意味します。

一審では、一般的にこの最終弁論の後に被告人の陳述があります。

控訴審では基本的に被告人の陳述がありません。

しかし、当審裁判長は、被告人自身に検察側証人に対して、尋問することを提案されました。そのことから、結審に際して、被告人に対して陳述を求めることがあるかもしれないと推測して、準備をしました。

 結局、型のごとく、被告人の陳述は、なしとういことになりました。

ここに、幻の控訴審最終陳述を掲載します。

控訴審:最終陳述

2008年12月24日

 

はじめに、手術で亡くなりました、明香さんのご冥福をお祈りしたします。

患者さんが医療事故で亡くなったことは大変悲しいことです。

しかし、私たちは、地に落ちた一粒の麦[i]を実らせなくてはなりません。

心研の心臓外科医や日本の心臓外科専門学会と関係省庁、心臓外科医療機器の会社はこのような事故が二度と起こらないように、情報や知識を涵養し、原因を解明し主に3つの具体的な対処をしてきました。

   東京女子医大の人工心肺を用いた小児心臓外科手術では、全てに上大静脈圧のモニターを行うようになりました。

   私の陳述書にも紹介させていただきましたメドトロニック社では、先端が手術方法や各症例の特徴に対応するために、術野で、自由自在に先端の長さや角度を変えられる脱血管を発売しました。

   日本心臓血管外科学会、日本胸部外科学会、日本人工臓器学会の作成した報告書をもとに、厚生労働省は、陰圧ラインにフィルターを装着しないことを勧告しました。

臨床医療における反省は、現場に従事する専門家が科学的に行うべきす。

しかし、非専門家の東京女子医大幹部が行ったことは、大学病院側の責任を逃れるためだけの内部報告書の作成、特定機能病院取り下げを回避するための裏工作、この事件を顧みずにおこなった報道による病院宣伝でした。

警察官や検察官の行ったことは、医学的、物理学的、工学的な背景、知識もなく、科学的な論理展開もないものです。

判決に当たりましては、この事故の真相が明らかになるようお願い申しあげます。


[i] 一粒の麦-新約聖書からとった都立西高校の「学友歌」に出てきます。オリジナルは「ヨハネ伝」「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなん。もし死なば果を結ぶべし。おのが生命を愛するものは、これを失い、この世にてその生命を憎むものは、これ保ちて、とこしえの生命に至るべし。」⇒西高学友歌「地に落ちよ一粒の麦、実れ我が命の枝に」

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2008年6月24日 (火)

「信頼の原則」の医療事故への適用

はじめに

 患者に点滴をするときに、雑菌が混入しないような清潔操作、処置をするように医師自らが指導して、手技をマスターしたと思われた看護師に全ての処置を任せた結果、患者さんが死亡したとする。「信頼していたのにまさかそんなことをするとは思っていなかった。」といっても、それは医師の言い訳に見えるかもしれない・・・。とニュースを読んでいたところ、以前に勉強した「信頼の原則」まとめを引っ張り出してみた。弁護士さんが以前にまとめたものに、自分で集めた最近の資料を合わせてブログに掲載する。

 医療事故調座長の前田雅英氏、ヤメケン代表飯田英男氏。この分野では何度も出てくるが、医療界ではこういった法律屋が幅をきかせているのに対して、同調までしているかのように見えるが、よいわけがない。両氏とも複数回出てくるので、そこだけでも読んで彼らが医療界にとっては、危険な人物であることを理解してもらいたい。

 以下、抽象的な総論の「I 学説」が最初に来てしまうため、初めてこの概念を知る人には取っつきが悪い。

II判例」を最初に読んでいただき

・千葉大採血事件

・北大電気メス事件

のふたつを読みくらべて、

「千葉大採血事件」→医師有罪、看護師有罪も刑が軽い

「北大電気メス事件」→医師無罪、看護師有罪

という極端な差が何故でたのかを考えると興味がわいてくるはずです。

I 学説

◇適用場面は限定的にとらえるべきという見解もあるが、医療事故についても「信頼の原則」の適用はありえるとする見解が主流である。

1 信頼の原則・定義

西原春夫

『交通事故と信頼の原則』S44

 「行為者がある行為をなすにあたって、被害者あるいは第三者が適切な行動をすることを信頼するのが相当な場合には、たといその被害者あるいは第三者の不適切な行動によって結果が発生したとしても、それに対しては責任を負わないとする原則」

板倉宏

『新訂刑法総論補訂版』2001

 「社会生活上必要不可欠であるが、危険を内包する仕事すなわち、『許された危険事務』をしている者が、他人(医師と看護婦といった仕事のパートナーもあれば、加害者〔ドライバー〕と被害者〔歩行者〕といった関係もある)が適切な行動をするであろうと信頼して行動したところ、その他人が信頼に反する不適切な行動をしたため被害が生じても、そのように信頼したことが社会的に不相当でなければ責任を負わなくてもよい、とする原則」

2 適用領域の拡大(ことに医療事故)

藤木英雄

「食品中毒事故に関する過失と信頼の原則」ジュリスト421.81(S44)

 「信頼の原則は、近時交通事故をめぐる責任について、交通関係者相互の事故回避の責任の分担ということから広く適用される方向にすすんできたが、もともとは、共同、して危険な作業をする者相互間では、危険防止の措置をなすにあたり、特に反対の事情が容易に認識できる場合を除き、同僚ないし共同作業者がそれぞれの担当する持ち場において相当な危険防止措置をとっていることを信頼し、各自の持ち場で合理的に要請される危害防止措置を行えば注意義務を完うしたことになる、という趣旨で、医療事故や鉄道事故のように多数の関与者をともなう事故の責任を論ずる際に適用されてきたものである。例えば、医師は、薬剤師に対し誤読されないように明瞭かつ正確な処方箋を交付した以上、薬剤師がその指示どおり適切に調剤するものと信頼して、いちいち処方どおりに調剤がなされたかをあらためて点検する義務を負わない...

中山研一ほか編

『現代刑法講座第3巻過失から罪数まで』S54

 「医療技術の高度の進歩、専門化に伴って医療の組織化、分業化を招来し、いわゆる『チーム医療』が一般化したことによって、このような危険な共同作業を分業的に遂行する複数人の責任範囲あるいは危険分担の確定という問題が注目されだしたことに起因する」

(適用場面の特色)

「第1に道路交通の場合と異なり、各人の分担業務が確立しており、共同作業の能率化のためそれに対する信頼を保障する必要性が存在する点、第2に業務分担者間に指揮命令ないし監督関係の存在する場合、命令者ないし監督者はどの程度責任を負うかという側面、換言すれば、特に他者の行為の監督に対する注意義務の存在の証明される限りで、信頼の原則の適用は排除されるという側面の存在する点、第3に、道路交通の場合と異なり、通例、損害の切迫が客観的に確定し、他人の将来の行為が既に全く問題ではなくなっている状況に対してもこの原則が適用されるという点である。...実質的に、被害者の犠牲において企業組織の過失責任があいまいにされてしまうという意味で、信頼の原則の適用の適否を具体的に慎重に検討すべきであろう。」

裁判所書記官研修所監修

『刑法総論講義案(改訂版)H10

 「・・・本来、その適用は必ずしも〔交通業過事件〕に限られるものではない。例えば、共同作業を前提とする危険な事務を遂行するような場合は、相互に各人の適切な結果回避措置を信頼してこれをしなければ事務それ自体が成り立たないのであるから、これらの事務には信頼の原則を適用する余地があるといえよう。近時、後述の【42】日本アエロジルエ場塩素ガス流出事件において、最高裁が、初めて交通関係の事件以外にも信頼の原則の適用を認めるに至ったことが注目される。」

福田平・大塚仁

『刑法総論1一現代社会と犯罪』S54

 「信頼の原則は、交通事犯に限らず、過失犯の他の領域においても適用される可能性をもっている。そのうち、とくに医療事故に関して一言しておこう。、医学が進歩し、医療のための技術が発達すればする程、複雑な医療行為の実施には、何人かの医師の共同作業が必要となり、また、医師とその他の医療関係者である看護婦・薬剤師・検査技術者等との協力が要求される。このような場合、共同医療にあたる医師同士や、医師とその他の医療関係者との間には、それぞれの分担するところについて、相互に信頼し合う関係がみとめられる。たとえば、医師は、処方箋によって薬剤師に調剤を依頼した以上、その薬が正確に指示どおりの内容・分量のものとして調合されていると信頼してよいし、熟練した看護婦に手術器具の消毒を命じた以上、確実に無菌状態になっていると信頼しうるものといわなければならない。もし、その結果について、医師にいちいち確認すべき義務を課するとすれば、医師の負担はほとんど無限となり、とうてい円滑な医療行為はなしがたいであろう。すなわち、医師は、薬剤師・熟練した看護婦などの行ったところについて、一見して過誤がみとめられないかぎり、通常、これらの者の処置は適正であると信頼して、自己の医療行為を進めうるものといえよう。こうして、医療行為における過失責任に関しても、信頼の原則を適用しうるのである。」

大谷實

『医療行為と法〔新版補正第2版〕』H9

 「医療も分担業務である以上、各分担者が適切な行動をとるであろうことを信頼してはじめて業務が成り立つ。それゆえ、看護婦等のパラメディカル・スタッフのそれぞれの任務に属する行為については、その判断と行為を信頼して医療行為を行ってよいのは当然であり、その誤りを予見しうる特段の事情がないかぎり、看護婦等の過誤について医師は共同の責任を負うことはない。ただ、医療においては、個々の補助者の行為が医師の義務に集約されること、補助業務ないし補助行為の結果が医師の視認範囲にあり、多くの場合、注意すれば薬液の取違いなどを予見することができるので、・他の組織的業務の分野ほど信頼の原則に基づく注意義務の否定ないし緩和にむすびいつかないといえるであろう。

...医療一体性の原則からは、この原則を適用する余地はないとする見解(飯田)、手術中の医師に限って適用すべきであるとする見解(町野)があるが、医師が細部にわたって確認・点検をするときは、救急時の処置等診療を適切に行うことができないこと、分業の確立状況、担当者の資格能力、補助行為の危険の程度などを考慮して、かなり限定してではあるがこの原則の適用を認めてよいであろう。」(引用略)

川端博

疑問からはじまる刑法 I [総論] 成文堂 2006

3款信頼の原則

 信頼の原則は,主として交通事犯に関して,形成・適用されてきたものである。しかし,この原則の適用は,これにかぎられない。信頼の原則は「過失一般,とくに被害者または第三者の行動が結果惹起に関係するような態様における過失の認定一般について広く用いること」のできるものなのである。(西原)すなわち、「信頼の原則は・交通事故特有の法理ではなく・危険防止について協力分担関係にあるすべての分野において問題となる法理である」 (藤木)。現在,この点について争いはないといってよい。複数の人間が相互に相手の行動を信頼しつつ分業でことを行う場合の例についていえば、たとえば、外科手術を担当する医師、特別の事情がないかぎり、用意された器具が消毒済みであることを信頼してよいし、局方品を注文した食品製造業者は、局方品のレッテルの貼られた薬品の中味が真実局方品である」ことを信頼してよいことになる(西原)

     否定的ないし限定的見解

飯田英雄

「医療過誤に関する研究」(当時千葉地方検察庁検事)S49

 「医師は自己の監督下にある他の医師、看護婦その他医療従事者に対して、自己を防止するための適切な指導、助言を与える義務を負っていると考えられるから、自己の監督下にある医療従事者の具体的失策に対しては、これを適切な指導監督によって是正することが可能なかぎり、これを怠ったことにつき注意義務違反の責任は免れない...医師が信頼の原則により補助者の過失についての責任を免れうる場合は、現実にはきわめて稀ではないかと考えられる。」

飯田英男

『シリーズ操作実務全書 10 環境・医事犯罪』 東京法令出版  1999

第2章2.医業過誤と刑事責任 2医療過誤と刑事責任298

(1)   医療過誤における「許された危険」と「信頼の原則」

イ信頼の原則

 信頼の原則は、本来、道路交通における責任分配の原理として判例上形成され、発展してきたものであるが、自動車交通の増大に伴う交通事故の激増という近代社会における避け難い現象を前提にして、道路交通の円滑化・能率化という社会的要請を受けて、行為者の注意義務の範囲をある程度限定して、事故の責任をすべて行為者の負担とすることの不合理性の是正を図ろうとするものであり、社会生活上有用な行為については、法益侵害の危険があっても必要な注意を払って行われる場合には一定の範囲で許されるとする点で、「許された危険」の法理とも基盤を同じくするものである。

 信頼の原則は、道路交通の領域だけでなく、複数の人が危険な共同作業を分担して行うことが必要とされる領域においても適用されるとして、医療過誤の分野にも信頼の原則が適用されるとする見解が有力であるが、人の生命・身体を直接の対象とする医療の分野において、信頼の原則を適用する余地があるかについては、場合を分けて慎重に検討されなければならないと考える。

()医師と患者の関係

医師と患者の間では、医師は医学上の専門的知識と技能を独占的に保有するのに対して、患者は疾病に侵されて自己の生命・身体のすべてを医師に委ねざるを得ない立場にある上、疾病あるいは医療行為による心神喪失ないし心神耗弱状態にあることも多い。また、医療が患者の協力なしには成り立ち得ないことも事実であるが、信頼のできる医師をもたないために多数の医師をめぐり歩くような現実の医療状況とで、一方で、「一時間待ち三分診療」などといわれるように、医師側がインフォームド・コンセント(医師の十分な説明とこれに基づいた患者の同意)について、その必要性を十分認識して、誠実に実行しているとは言い難い医療の現状を考えると、医師と患者の間において基本的な信頼関係が確立していると解し得る一般的状況にあるとは到底思われない。したがって、患者が医師の指示を十分に理解していながら自己の信念に基づいて敢えて指示に従わないというような特別の場合は別として、一般的に医師と患者の間においては信頼の原則が適用されるとすることは相当ではなく、仮に患者側に医師の指示通り服薬しないとか、医師の指示に反する等の過失があったとしても情状として考慮すれば足りるのであって、信頼の原則を適用しなければ解決できない問題とは解されない。

()医療関係者相互間

共同作業者間における信頼の原則の適用を認める立場からは、医療関係者相互間における信頼の原則の適用の範囲が最も間題となる。この点について積極的に適用すべきであるとする立場からは、医師と看護婦など医療補助者の間あるいはチーム医療における医療従事者相互間においては、各人の分担業務が確立しており、互いに相手の行為を信頼し合う関係なくしては近代的な医療システムは機能し得ないとする。北海道大学電気メス事件(札幌高判昭51.3.18高刑集29.1.78)は、介助看護婦が電気メス器のメス側ケーブルと対極板ケーブルを交互に誤接続したことに気付かないまま、執刀医が電気メスを使用して患者に重度の熱傷を生じさせたものであるが、判決は、介助看護婦については、ケーブルの誤接続により本体からケーブルを経て患者の身体に流入する電流の状態に異常を来し、電流の作用による傷害を被らせるおそれがあることは予見可能であったとしながら、執刀医がベテラン看護婦を信頼してケーブルの接続の正否を点検しなかった点に注意義務違反があったとはいえないとしている。この判決をめぐっては、信頼の原則の適用を認める立場と否定する立場、限定的な適用を認める立場と様々な見解がある(拙著「北海道大学電気メス事件」唄孝一ほか編『医療過誤判例百選〔第2版〕』50頁・有斐閣)

そこで、まず医師と看護婦など医療補助者の関係についてみると、医療行政上は医療の専門性にかんがみ診療の責任は医師に一元化されており、両者は対等の関係ではなく、看護婦の業務は「療養上の世話又は診療の補助」(保助看法5)に限定され、看護婦はあくまで医師の手足として医師と一体となって行動すべきものとされている(「医療の一体性」)。また、看護婦の行う診療の補助行為は医師の視認範囲内にあることが多く、特に、危険性のある補助行為については、医師の直接の監視下で行われることから、医師が十分に注意していれば補助者の誤りは是正することができるといえよう。このような観点から、医師は、医療補助者の行為が適切に行われるように絶えず補助者を指導・訓練し、不適切な行為に対しては具体的にこれを補足・是正して、患者に危険を及ぼさないようにする義務があるが、その反面、医師が医療補助者の行為のすべてについて、細部にわたり自ら直接確認すべきであるとすることが困難な場合(具体的には、現に執刀中の医師など極めて例外的な場合に限られる)には、十分に訓練された医療補助者の行為に対しては、補助行為の危険の程度等をも考慮して一定の範囲で信頼することが許されると解する余地がないとはいえないと思われる。しかしながら、医療の現場においては、前記のように診療の責任が医師に一元化されていることもあって、本来、医師が行うべき医療行為の相当部分が医師の指示・監督の下に医療補助者によって行われていること(過去の刑事医療過誤に関する裁判例には、かかる事例が多数含まれている)を前提にすると、そもそも信頼の原則が適用される前提になる医療従事者相互間の業務分担が確立しているといえるのかという疑問がある。医療行為の分野では、このように医療従事者相互間の業務分担自体があいまいなのは、両者の業務形態そのものが医療現場の状況によって異なっているため、いわば慣行に基づいて行われている場合が多く、業務分担を基礎づける内規等を欠いているか、内規等がある場合でも抽象的な内容であることが多く、事故防止の観点をも考慮した具体的な内容にはなっていないことによるものと思われる。例えば、前記の北海道大学電気メス事件においても、手術機械・器具類のセット責任が手術部、診療科のいずれにあるかについて、内部的な意見の対立があったとされている上、医療チーム内部における執刀医とその他の共同医療従事者の業務分担も明確でなく、チームを指揮統率する責任者が誰であるかすら特定することができない状況にある(本件判決では、指導医がチームの指揮統率についていかなる権限を持っていたのか断定できないとしながら、指導医がいる以上執刀医は指揮統率すべき地位になかったとするが、チームには指揮統率者が必要と解するのであれば、指導医に指揮統率する権限がなければ、執刀医が指揮統率していたと解するのが当然であり、これを否定するのであればチームの指揮統率者は不要と解さざるを得ないことになるのではないだろうか)。このような状況下においては、具体的な危険の発生を防止するのに必要な医療従事者相互間の業務分担が確立していたとは認められず、信頼の原則を適用できる条件が整っていたと解することには疑問があるといわざるを得ない。

加藤久雄

『新訂版ポストゲノム社会における医事刑法入門』2005

「本書も、学説の多数説を支持し、チーム医療における刑事責任の分配原理としてこの『信頼の原則』の法理を軽々に適用すべきではないとの立場である。けだし、医療過誤事件では、医療側の医療行為ミスから患者の法益が侵害されるのであり、患者(被害者)の被害救済をどうすべきかの視点こそが重大であるからである。医療側で責任のなすりつけ合いをして、実質的に責任が軽減されることになっては、被害者側は納得しないであろうし、刑法の重大な機能である『一般予防効果』や『再犯防止機能』などが形骸化されていく危険性があるからである。そして、この原則を医療側の責任分配の原理として使う場合には示談等により「和解」が成立し、被害者の救済が実質的に済んでいる場合に限るべきであろう。」町野朔

「過失犯における予見可能性と信頼の原則」ジュリスト575.72(S49)

 「医療における分業の機能、医療の円滑な遂行という利益は、窮極的には患者の利益のものであるから、補助者を信頼することによって患者に生じた侵害結果は正当化されない、責任が阻却されるにとどまるという者がいる。もちろん、常に、医師に補助者に対する監督義務があるわけではない。しかし、医師が補助者を信頼することが許されるばあいがあるのは、医師が本来の職務である手術等に没頭しなければならないという事情があるためであって、『信頼の原則』の適用があるとしても、主に手術中の医師に限られるべきであろう。」

大嶋一泰(岩手大教授)

「医療過誤判例百選」26

 「チーム医療など監督関係にある者の共同・分業作業における危険業務遂行上の信頼関係には、道路交通関与者間の運転者同士の対等の信頼関係とは異なるものがある。被害者である患者に対する関係では、チーム医療を行った医療スタッフの間に信頼の原則を導入して責任のなすり合いを認めることは、責任の所在をあいまいにし、不明確にする危険性をはらんでいる。チーム医療その他の医療における共同と分業においては、ドクターとその補助者の役割を担う者との間の関係は、ドクター優位の原則の支配する監督関係としてとらえられなければならない。従って、ここでは『信頼の原則』は、被害者である患者に対して誰が責任を負うべきかを判定する発見的手段としての機能を担うべきである。共同と分業の形態を取って治療を行った過程で生じた医療過誤について、患者に対して誰が責任を負担すべきかを判定するにあたって、医師の監督責任を追及することは事の性質上当然であり、分業、の否定になるわけではない。」

3 医療事案への適用にあたっての類型化等

松倉豊治(兵庫医科大学教授・法医学)

医療過誤判例研究(15)判タタイムス340

 「医師看護婦等の関わり方は実に多種多様...

()医師看護婦の業務.

..(看護婦の補助業務との比較で)レントゲン技師、衛星検査技師、臨床検査技師等の行為で広義の医療という観点からこれらが医師の診療に対する補助行為となっている場面が少なくない。ただし、医師の行為と法的に一線を画した範囲で固有の専門領域を持っていることはいうまでもない。

()医師と看護婦その他の補助行為者と連繋作業の類型

D行為場所による連繋類型

(1)同時共同作業

(2)面前ないし近接作業

(3)異所性、非面前作業

E資格・能力による連繋類型

(2)通常有資格者(看護婦、准看護婦、保健婦、助産婦)

(3)特殊有資格者行為(検査技師、レントゲン技師、整復師その他の療術師、保母、養護教員等).

..有資格者の非面前行為には、指示が適確なる限り、それに多くの信頼をおくのもまた当然である、といった作業類型毎の考慮がそこで働くべきであろう。臨床検査技師による検査成績が、現実に患者の状況を把握せる医師において特別の不審を抱くべき一般的理由がない限り、それを信じて診療に援用するのもその典型の1つ・である...チームである以上その構成員の間に相互信頼の姿のあるべきことも当然である。」

II判例

◇医療事故に信頼の原則を適用した最判はないが、交通事故以外の事案に適用したものとして、日本アエロジルエ場塩素ガス流出事件がある。高裁レベルでは、医療事故に信頼の原則を適用したものとして北大病院電気メス禍事件があり、適用可能性を認めたもの(?)として千葉大採血ミス事件がある。

*:判決文それ自体は未確認

最高裁S63.10.27

日本アエロジルエ場塩素ガス流出事件*

     最高裁が、初めて交通関係の事件以外にも信頼の原則の適用を認めるに至ったとされる事案(塩素ガスが流出し、付近住民等に傷害を負わせたもの)

「〔1,2審の〕判決が、両被告人は右の安全教育又はその指示を行っただけでは足りず、、液体塩素の受入れ作業の現場を巡回して監視する義務がある旨を判示している点は、過大な義務を課すものであって、正当とはいえない。すなわち、右の安全教育又は指示を徹底しておきさえすれば、通常、熟練技術員らの側においてこれを遵守するものと信頼することが許されるのであり、それでもなお信頼することができない特別の事情があるときは、そもそも未熟練技術員を技術班に配置すること自体が許されないということになるからである」

千葉地裁S47.9.18

千葉大採血ミス事件*

吸引・噴射の両機能を有する電気器具を利用して採血作業を行うにあたり、看護婦が器具の調整を誤ったため、採血にあたった医師が被害者の静脈内に空気を噴射させ、被採血者を死亡させてしまった事件。採血器の準備、操作はすべて看護婦にまかされていたという慣行があった。裁判所は、点検確認義務違反を理由として医師の過失を肯定

札幌高裁S51.3.18

北大病院電気メス禍事件

     看護婦による電気手術器のケーブル誤接続に起因する患者の傷害事故につき執刀医の過失責任を否定した事例

「三執刀医X...の介助看護婦に対する信頼の当否

()電気手術器の危険性の実態とその認識...本件事故当時まで医学界においては、電気手術器により重大な事故を起こした事例は知られておらず、電気手術器は安全なものと考えられ...

()ケーブル接続に関する業務の分担

(2)看護婦の補助行為の範囲と医師の監督責任の限度

 およそ危険を内在する補助行為については、事情の如何を問わずことごとく医師において具体的な点検・確認を行うべく、看護婦の措置を信頼する余地を許さないとすることは、当該医療行為における医師の役割や医師による点検の実施が当該医療行為自体に及ぼす影響をも無視することになり首肯しうるところではない。医師が看護婦の補助行為に対する監督としてどのような措置をとることが義務付けられるかは、結局、補助行為の性質、当該医療行為の性質、作業の状況、医師の立場等の具体的状況に照らして判断されるべきである。

(5)手術直前における執刀医の本来的任務

...執刀医は、手術開始後は術野に注意を集中して執刀に専念することが望まれ、術野以外の分野に注意を分散することは手術の成功を阻害する原因ともなりかねない...〔本件手術では〕執刀直前の時点において、...手術自体以外の分野に注意を向ける精神的余裕は乏しかったものと認められ...

(6)介助看護婦の能力と作業の性質

...同人がベテランの看護婦であることは承知していた...ケーブルの接続は...極めて単純容易な作業

(8)執刀医の負担と事故防止方策

...器械自体にかかる事故防止の手段は本来手術部の講ずべきもの_執刀医にのみその負担を代替させることは...本件のように重大な手術遂行に重い負担を負う執刀医の立場に照らし合理的であるとはいえない。

四被告人Xの負うべき刑法上の過失責任の有無

...執刀直前の時点において、極めて単純容易な補助的作業に属する電気手術器のケーブルの接続に関し、経験を積んだベテランの看護婦である被告人Yの作業を信頼したのは当時の具体的状況に徴し無理からぬものであったことを否定できない。...当時の外科手術の執刀医一般について電気手術器のケーブルの誤雛に起因する儲事故の発生を予見しうる可能性が必ずしも高度のものでなかった,..

(判例評釈)

西原「監督責任の限界設定と信頼の原則()

「千葉大の電気吸引器の場合は誤接続すれば危険が生じるのは明らかであるのに、北大の電気メス器の場合には、誤接続しても必ずしも危険とはいえず、他の条件が重なれば危険であるけれども当時それが明らかになっていなかった...この点に着眼すれば、前者の場合には看護婦の注意以外に危険回避を保障する機構がより多く必要になってくるのに反し、後者の場合にはその必要性が低く、したがって看護婦に操作を一任し、その適切な操作を信頼することの相当性が少なくとも前者にくらべて決定的に大きいことが明らかとなろう。」

町野・前掲

(北大病院電気メス禍事件の)判旨は、医師が看護婦の適切な行動を信頼してよかった理由として、交互誤接続がありうることの認識が彼に不可能であったことのほかに、誤接続によって重大な事故が発生するという危険も知れていなかったことをあげる。この判旨の考えによると、このような危険が医師に知れていたら、医師は依然としてケーブル接続の正否を点検確認する義務を負うことになる。そうだとすると、この判例の考え方は、通常の『信頼の原則』とも違うことになる。たとえば、看護婦が調剤を誤れば、重大な危険が生じることは明らかである。それにもかかわらず、信頼の原則を適用する者は、医師の検認義務を否定するのである。判旨の考え方は、従来の判例、学説とどれだけ違っているか疑問となってくる。」

飯田英雄「医療過誤判例百選」⑳北海道大学電気メス事件

「本来道路交通における危険分配の法理として判例上形成されてきた信頼の原則が、専、ら患者に対して有効・安全な医療を提供することを目的とする医療チーム内での分業の原理にも直ちに適用し得るかについては慎重な検討を要するものと思われる。すなわち、信頼の原則の適用を肯定するためには、その前提として医療従事者相互間における業務分担が確立しており、それが業務を運営するうえで危険な結果の発生を回避するに足りるものであることを要する...本件についてみると...手術部が独立の分業として信頼するに足りる実態を有していたものといえるかは疑問である...手術の前後にはより多くの時間と余裕があり、執刀開始直前も執刀中に準じて取り扱う必要があるとする判旨は疑問である。」

川端博

疑問からはじまる刑法 I [総論] 成文堂 2006

3款信頼の原則

 外科医A,動脈管開存手術の際,介助看護師Bが電気メス器のケーブルを誤接続させたのに気付かずに,その電気メスを使用して患者に災蕩を負わせたという事案において,札幌高裁は,次のように判示して執刀医の過失を否定した(いわゆる北大電気メス誤接続事件)。すなわち,「執刀医である被告人Aにとって,前叙のとおりケーブルの誤接続のありうることにっいて具体的認識を欠いたことなどのため,右誤接続に起因する傷害事故発生の予見可能性が必ずしも高度のものではなく,手術開始前に,ベテランの看護婦である被告人Bを信頼し接続の正否を点検しなかったことが当時の具体的状況のもとで無理からぬものであったことにかんがみれば、被告人Aがケーブルの誤接続による傷害事故発生を予見してこれを回避すべくケーブル接続の点検をする措置をとらなかったことをとらえ,執刀医として通常用いるべき注意義務の違反があったものということはできない」と判示したのである(札幌高判昭和5・・3・・8高裁129巻・号78)これは、共同医療行為に関する先例として重要な意義を有する判例である。

III刑法総論からみた「信頼の原則」

井田良 

『刑法総論の理論構造』  成文堂 2005

第8章       過失犯 122頁

 客観的注意義務による過失認定の限定という観点から注目されるのは、信頼の原則である。信頼の原則が適用される場合には、結果が予見可能であるにもかかわらず(または予見可能であるかどうかにかかわらず)過失が否定される。

 信頼の原則の根底には「被害者の自己責任(または自己答責性)」の原理があるとする見解もある。しかし、もしそうであるとすれば、この原則は交通事故における過失の認定にあたっては適用できるとしても、相互に準則の遵守が要求される者以外の人に結果が発生する場合、たとえば、医療チームによる手術から患者に被害が生じる場含とか、大規模な工事・危険な作業により通行人や付近住民に被害が生じる場合などについては最初から信頼の原則を適用できないことになってしまうであろう(20)。むしろ、信頼の原則とは、社会的に不可欠な共同作業を可能にするための共働者間の役割分担に関する社会的ルールを基礎とするものにほかならない。他者の責任領域内の事柄については、かりに自己の領域からも「その様子がかいま見える」としても(すなわち予見可能であるとしても)、それに対応した注意措置までとることは刑法上要求されないのである。

 もちろん、信頼の原則とは別に、過失犯における客観的注意義務の内容の確定に関し、被害者の自己責任ないし自己答責性の思想が意味を持つことはあり得るように思われる。たとえば、Xが、精神的に極度に落ち込んでいるYに対し、不注意にもYをひどく傷つけるような言動を行い、その結果、Yが自殺するに至ったとしよう。かりに結果発生の予見可能性が肯定されたとしても、これを過失致死とすることはできないであろう。その結論は、刑法上、過失による自殺教唆が処罰の対象とされていないことからも支持されるというべきであろう(いいかえれば、刑法202条から、故意による自殺行為に対する過失的教唆・帯助の不可罰性を導くことは可能だと考えられるのである)

20)最高裁も、交通事故のようなケースばかりでなく、工場における作業ミスにより大量の塩素ガスが放出されて付近の住民に被害が生じた事件で、作業を監督する責任のある者につき信頼の原則の適用があることを認めている(日本アエロジル塩素ガス流出事故に関する最判昭631027刑集4281/09)

井田良 丸山雅夫他

『ケーススタディ 刑法[第2版]』日本評論社 2005

13章 過失(犯) 

ケース2(信頼の原則)

Xは自動車で右折しようと信号機のない交差点に進入したが,中央付近でエンジンが停止したため停車してしまった。再始動して発車する際,X,左側方のみを注意し右側方の安全確認を充分にしなかったために,オートバイに乗ったAが右側方から追い越しをかけてきたのに気づくのが遅れ,急停車した自車をAのオートバイに衝突させ,道路に転倒したAを負傷させた。Xには業務上過失傷害罪が成立するだろうか。

過失犯の成否については,複数の関与者の不適切な行動が競合することによって結果が発生する場合がしばしば問題になる。行為者の不注意(不充分な安全確認)と被害者の不注意(禁止された態様での追い越し)が競合したケース2,その典型である。こうした場合,民法においては,XAの不注意を差し引き(相殺)したうえでXの損害賠償額を決定することによって妥当な解決が図られている(過失相殺)。しかし,刑法では,過失犯を成立させるだけの過失が行為者に認められるかどうかだけが問題であり,関与者間の不注意を相殺するということは認められない。

この種の事案に関して,ドイツでは,1935年以来の一連の判例において,信頼の原則という考え方が確立されてきた。それは,複数の者が関与する社会事象において,個々の関与者は,他の関与者が規則を守って適切な行動をとるであろうことを信頼してもよい場合には,他の関与者の不適切な行動と自分の不適切な行動とが重なり合って構成要件的結果が発生したとしても,その結果について過失責任を問われることはない,とするものである。その根拠は,不適切な行動をとる者のありうることまでを前提として結果の予見義務・回避義務を課すことは,行為者に不可能を強いることになりかねないという点に求められる。こうした信頼の原則は,2次大戦後にわが国にも導入され,交通事故に関する判例(最判昭41614刑集205449頁等)を通じて実務に広く受け入れられてきた(西原春夫『交通事故と信頼の原則』〔1969年〕参照)

ドイツの実務は,一般に,信頼の原則の適用に否定的ないしは慎重な態度を示している(神山敏雄・百選1(4)ll3頁参照)。また,わが国の学説のなかにも,信頼の原則という考え方そのものに否定的な立場があるし(井上祐司『行為無価値と過失犯論』〔1973年〕135頁以下),行為者自身に規則違反がある場合には原則として信頼の原則の適用がないとする限定論もある(大塚・222)。しかし,行為者の行動に不適切な面があったとしても,そのことからただちに過失犯の注意義務違反が認められるわけでもない(不注意の全くない行動というのは一種のフィクションである)。①行為者本人の不注意があまりに重大である場合や,②他の関与者の不適切な行動が当然に予見できる場合,③幼児・老人のようにそもそも適切な行動を当てにできない者が関与している場合,といった特別な事情のある場合を別にして,白動車運転者は,他の者が「交通関与者としての適切な行動」をとるであろうことを信頼して行動すれば充分なのである。ケース2Xには,信頼の原則が適用され,結果予見義務(旧過失論)ないしは結果回避義務(新過失論)が否定されることになる(最判昭4!1220刑集20IO1212頁参照)

信頼の原則は,交通事故に関する判例によって確立されてきたものではあるが(なお,最判昭42`/013刑集218IO97),複数の関与者の不適切な行動が競合したという点に着目する考え方であるから,交通事故の場合だけに限定される考え方ではない。チーム医療における医師と看護師の関係などのように,交通事故以外の社会事象についても認められるケースが存在しうる(平良木登規男・百選/(4)09)。たとえば,外科手術チームの執刀医は,介助看護師による器具の消毒が充分であることを信頼して手術に専念することが許されるのである(札幌高判昭513!8高刑集29!78頁参照)

高橋則夫 井田良 他

『法科大学院テキスト 刑法総論』日本評論社 2005 

ケース3 北大電気メス事件(課題判例⑤ 札幌高判昭和51年3月18日)

 X大学医学部附属病院で電気メスを使用した動脈管開存症の手術がなわれた際、間接介助看護師甲が、電気メスのメス側ケーブルと対極版側ケーブとを誤って接続し、そのまま医師乙が手術を行ったため、併用されていだ心電計の欠陥を相俟って、高周波電流に特殊な回路を生じ、患者Xの右下腿部に重度の熱傷を生じ、右下腿部切断に至った。

Q2 ケース3 (課題判例⑤)を読み、次の問いに答えよ。

・信頼の原則とは何か。(10)この原則は、交通事犯以外についても適用があるか。適用される事例としてどのようなものが考えられるか。

・信頼の原則の適用が認められる場合、どのような理由で過失犯の成立は否定されるのか。信頼の原則の法理は、許された危険の法理といかなる関係にあるか。

(4)新・新過失論と修正旧過失論

 新過失論は、信頼の原則等の法理と相侯って、遵守するかぎりで普通結果を帰属されることのない一般的行為基準(基準行為)を定立することにおいて、一面においては刑事過失責任を制限するという機能を果たし得た。

その反面、行為基準(基準行為)の設定判断は、行為の目的・社会的効用、結果発生防止措置の有効性等の衡量によるため、若干の恣意性・不安定性も免れ得ず、さらには、結果の予見可能性の要求程度を緩和することによって行為基準を引き上げれば、刑事過失責任を拡張する機能も有し得る。

後者の側面は、1960年代後半以降の公害・薬害等の広範な顕在化を契機に、弱者たる一般市民の保護という観点から、営利追求主体(企業)に要求されて然るべき高度の専門的知識・慎重さ等に鑑み、結果の予見可能性を「危惧感」ないし「不安感」で足りるとして、厳しい行為基準・結果回避義務を要求するに至った新・新過失論(危倶感説ないし不安感説とも呼ばれる)において特に明らかとなった。

 行為無価値論への傾斜を深める新過失論の定着化の傾向に対しては、結果無価値論の立場から、強い批判が加えられた。ここから、基本においては旧過失論の立場に同調しつつ、旧過失論が過失行為を単に結果と因果関係を有するものという観点で捉えている点を修正して、結果発生の「実質的で許されない危険」を持った行為であり、その危険の現実化として結果が発生したときに処罰される、と捉え直すべしとする修正旧過失論が提示された。すなわち、過失犯の成立を構成要件・不法の段階で「実質的で許されない危険」という規準により合理的に限定しつつ、不注意による自己の行為のそのような危険な性質の不認識を実質とすることによって、過失をなお責任要素として維持する方向が提示されたのであった。

(10)具体例一交差点で右折しはじめた自動車が、①やや遅れて同一方向に向かって歩道上を走っていた自転車を横断歩道上で引っかけ、乗っていた人を負傷させた場合と、②やや遅れて同一方向に向かって車道を追走し、自車の右側をすり抜けようとしたモーターバイクを引っかけ、乗っていた人を負傷させた場合とでは、自動車の運転手の刑事責任は異なり得るかどうか、異なるとすれば、それはいかなる理由によるのかについて考えてみよ。 

川端博

疑問からはじまる刑法 I [総論] 成文堂 2006

3款信頼の原則

 いったい「信頼の原則」とは何であり,どのような背景で確立されてきたのだろうか。信頼の原則は,犯罪論の体系上,どこに位置づけられるのだろうか。そして信頼の原則は、「過失概念」にとってどういう意味をもち,その「適用範囲」はどうなるのだろうか。

〔解説〕

1 信頼の原則の意義と問題の所在

信頼の原則とは,「行為者がある行為をなすにあたって、被害者あるいは第三者が適切な行動をすることを信頼するのが不目当な場合には・たといその被害者あるいは第三者の不適切な行動によって結果が発生したとしても・それに対しては責任を負わない」とする原則をいう(西原)。つまり,信頼の原則とは,「行為者が,被害者その他の第三者が危険を回避するべく適切に行動するであろうことを信頼して一定の行為をなした場合,その信頼が社会的に相当とみとめられるかぎり,第三者がその信頼に反して不適切な行動をなし,その結果何らかの加害が惹き起こされたとしても,その加害について行為者に過失責任を問わない」原則を意味するのである(沼野)。この原則は・ドイツの学説・判例において,主として交通事犯の領域で生成・確立されたものとされるが、スイス・オーストリアにおいても時を同じくして生成・確立されたのである。わが国においては,とくに西原博士がこれを発展させられ,判例にも多大な影響を及ぼした。

 たしかに,信頼の原則が,当初,ナチス刑法思想によって推進されたことは歴史的事実であるといってよいであろう。しかし、このことから、すぐに信頼の原則は,ナチスの交通政策とナチス法思想の一端を担って登場した……。道路という比較的自由な空間を,経験や能力を異にする雑多な法主体が,また、私的な経済関係におかれた利害相対立する法主鰍曲こ利用するの,'が現にある交通秩序である筈である。しかし,信頼の原則の背景をなしてる交通秩序は、極めて技術化され単色化された秩序として描かれていることに気づく。法主体も権利を主張して相対立する個人ではなく,民族共同体の構成員という均一等質のものに入れ替えられている。道路交通に『本来的に』つきまとわざるをえないルールの存在とその遵守というようにこの原則を抽象化してしまって、時と処をこえて妥当する純粋なほえ命題、社会的な技術命題のように考えることは、資本主義社会を前提とした交通秩序の現実からことさらに目をそらすことになろう。信頼の原則の出生のこの秘密は、この原則の内容を規定している。自動車交通全体の能率化にそのねらいがあるという。この『全体』(民族共同体,運命共同体)によって一体誰の利益が保証され,誰の利益が無視されるのかは自明のことに属する」(井上〔祐〕)とされる。

 全体の利益を強調することによって犠牲を強いられる者が生じ得ることについての上記の警告には傾聴すべきものがある。すなわち,このような信頼の原則に対する「イデオロギー的批判」は,「歴史的因果の確定というよりむしろ,思想的近似性の指摘によって,実務と学説における無条件の支持と安直な適用に対して警鐘を打ち鳴らそうとした点に意義があると考えるべきであろう。信頼の原則には,交通の円滑化という『全体的利益』の優位という思想は否めないからである」(山中)。しかし,自動車の普及・産業資本主義の発展とナチスの台頭・隆盛は,歴史上,同じ時期に重なったと見るのが妥当ではないだろうか。その時期の政権担当者がナチス・ヒットラーであったので,ナチスが産業資本主義の申し子である自動車交通の発展に寄与する信頼の原則の推進役を演ずることになったと解すべきであろう。つまり,信頼の原則は,思想的にはナチズムのコロラリイ(論理必然的結論)としてみとめられたのではなくて,むしろ産業資本主義の高度化によってもたらされたものと把握されるべきなのである。

 自動車産業の発展と自動車の大量的普及により,道路交通は,現代杜会における生活空間として大きな地位をしめるに至っている。いいかえると,ドライバーの大衆化により,道路交通関与者の均質化が急速に進んだのである。

そこにおいては,日常の生活を営なむ一般人としての大衆が,同一の条件の下で,つねに交通事犯者となり得る地位に置かれている。そのばあい,信頼の原則の適用により過失責任の追及が緩和されると,実に明瞭に刑法の「謙抑化」がみとめられることになる。現時点においては,この側面が強調されるべきであろう(大谷)

 わが国においても,学説・判例上,信頼の原則は定着したと見てよい。しかし,刑法解釈論プロパーの問題としては,なお争われている論点がある。まず第!,信頼の原則は犯罪論体系上,どこに位置づけられるのか,2,信頼の原則は過失概念との関係においていかなる機能を有するのか,3,信頼の原則の適用範囲はどうなるのか,という点が,すなわちこれである。以下,これらの問題を見ていくことにする。

2 信頼の原則の犯罪論体系上の位置づけ

信頼の原則を承認する立場にあっても,細かい点ではなお見解は一致していないが,少なくても次の点では争いはないと見てよいであろう(大谷)。すなわち,①信頼の原則は「許された危険の法理」ないし「危険の適切な分配」

と表裏をなすもの,または,これらの一応用場面であること,②信頼の原則が適用されるためには,(a)自動車の高速度かっ円滑な交通の必要性の存在,(b)道路の整備・信号の設置などの交通環境の整備・(c)交通教育'交通道徳の普及により,一般の交通関与者の交通秩序違反行動がきわめて少なくなっていることという要件を具備していること,③信頼の原則には適用上の限界があること,が共通の前提とされているわけである。

それでは,信頼の原則は「過失犯の構造」といかなる関係を有するのであろうか。現在,信頼の原則が,「客観的注意義務」の限界を画する実質的・具体的基準を定めるための一つの原則であるとされる点で・学説は一致している(大谷)。そうすると,「客観的注意義務」の犯罪論体系上の位置づけが,そのまま「信頼の原則の位置づけ」に投影されることになる。この点につき,客観的注意義務を構成要件要素と解する見解は・信頼の原則を構成要件該当性阻却事由とし,許された危険の法理は実質的な利益衡量の問題であるから違法性論に属すると解する見解は,信頼の原則を違法性阻却の一場面として把握することになる。しかし,いずれの見解をとったとしても・実質的吾こ判断基準が異なるわけではないので,この対立はあくまでも「体系上の対立」

にとどまるが(大谷),構成要件該当性阻却説の方が妥当とされるべきであろう。なぜならば,r構成要件の問題だとした方が・過失行為はかなり高度の危険性(客観的予見可能性)をもつときをこかぎって処罰するという理論により忠実であり,逆に,すでにこの程度の危険性を有するときは,他にとるべき利益があっても客観的過失は否定されない(許された危険の限定)という点でよりすぐれた理論構成である」(曽根)といえるからである。

3 過矢概念:に対する信頼の原則の機能

―「予見可能性」の限定か「注意義務」の限定か

 信頼の原則が適用されると,行為者の過失が否定され過失犯は成立しない。

この点については争いはない。問題は,過失犯の成立要件のいずれに影響を及ぼすのか,という点にある。学説は,大別すると2つに分かれる。1つは,「予見可能性」を否定するものと解する立場であり,もう1つは,「注意義務」を否定するものと解する立場である。

(1)予見可能性を否定する立場

 この立場は,さらに2つに分かれる。すなわち,①信頼の原則は「客観的予見可能性」を具体化するための「思考上の基準」であるとする説と,②「刑法上の予見可能性」を抽出する原理であるとする説に分かれるのである。①説は,次のように主張する。すなわち,「過失行為は,単に結果に対して因果関係があるというだけの行為ではなく,結果発生の『実質的で許されない危険』を持った行為であり,その危険の現実化として結果が発生したとき処罰するもの」であり,「不注意により自己の行為にこのような性質があることを認識しなかったところに,過失の責任としての実質がある」(平野)とされるのである。「この過失行為のもつ危険性は,結果の客観的予見可能性といってもよい。危険性がある場合には,一般の人であれば,結果の発生を予見できたはずだからである。……右の場合の予見可能とは,『ある程度高度の』予見可能性をいうのであ」り,信頼の原則についていえば,「被害者がそのような行動をとる蓋然性が低く,したがって被告人の行為は実質的な危険性があるとはいえないから,過失犯は成立しないのである。このように,信頼の原則は,過失犯の一般的な戊立要件を,明示的に言い現わしたにすぎず,特別の原則ないし要件をなすわけではない」(平野)とされるのである。

この説は,「行為者にとって,他人の注意深い行動が認識されるために,結果発生の客観的予見可能性が極めて低いものとなり,したがって,過失犯の構成要件該当行為としての『危険な行為』と『不注意』が存在しない場合にほかならなくなる,と考える」ものであり,10)ように考えるならば,『信頼の原則』とは、単なる標語スローガンであって、独立した理論的実態をもったものではない」(内田[文])ことになる。

 ②説は、「過失概念の中における信頼の原則の地位については、事実的自然的予見可能性の中から刑法的な予見可能性を選び出すための原理と解する。.....刑事過失の認定の際における予見可能性は、あくまでも刑法的な概念でなければならない。なぜなら,自然的予見可能性は、認定しようと思えばつねに認定できるほど不明瞭であるばかりでなく、刑法的に予見可能な場合には,やはり刑法的に,その予見にしたがった結果回避措置をとるべき義務が発生するとみるべきだからである」(西原)と主張する。

(2)注意義務それ自体を否定する立場

 この立場は,さらに3つに分かれる。③「予見義務」そのものの範囲を制限する規範的な標準と解する説,④「結果回避義務」の認定の基準要素であると解する説,⑤「予見義務」および「結果回避義務」を内容とする「客観的注意義務」の内容を具体化するための方法的原則であると解する説が、主張されているのである。

 ③説によれば,「今日でも交通違反はひんぱんに犯されているので、信頼の原則の適用が認められるすべての場合が予見不可能な場合だとは、とうてい言えないであろう。他人の交通法規遵守を信頼して運転することはやはり一種の危険行為なのである。しかし,この信頼関係を認める以外には安全円滑な交通は確保できないという理由から、通常の場合には(すなわち、適度の危険の場合には)他人の違反行為を予見しなくてもよいという基準を与えたものと解される。そうすると,信頼の原則をもって一定の条件の下に直接予見義務を制限する基準と考える」のが「実体に即した素直な理解のように思う」(金澤)とされる。

 ④説によれば,「信頼の原則の体系的位置づけについては…予見可能性のある事態のもとで,注意義務(結果回避義務)の負担に軽減されるものであって、体系上は,注意義務(結果回避義務)の認定のひとつの基準要素であると解すべきもの」(藤木)であるとされる。さらに,「侵害惹起の危険を内包している社会的に有用な行為は,その有用性のゆえにこれを行なうことが許されているが,それには常に必要な(社会で要求される)予想される危険,危険防止措置を講ずることが前提とされる。この防止措置を講ずべきことがこの場合の客観的(注意)義務である。いかなる義務をつくすべきかは個々の場合に特別の規則などによって定められているが,あらゆる情況に応じた必要措置を規定しきれるものではないから,価値的利益保護の理念を基礎として具体的場合に必要な措置を引き出すことが必要となる。信頼の原則はまさにそうした具体化の際に役立つ一つの前提原理」(木村〔静〕)とされるのである。

 ⑤説を主張される福田博士は,「客観的予見可能性と客観的結果回避可能性が肯定されると,ここではじめて,社会生活上必要な注意の義務づけが可能となる。もっとも,結果の予見およびその回避の可能性があるときには,つねにその結果を予見すべきであり,したがって,その結果を回避するのに適切な措置をとるべきであるという注意義務が課せられるものではない」のであり,「信頼の原則は,交通事犯に関して,社会生活上必要な注意の内容を具体化するための方法的原則として,その具体化のための思考上の基準を提供するものである」とされる。また,大塚博士も,客観的注意義務(すなわち,構成要件的過失の要素)の内容を「結果の予見義務と,その予見にもとづいて,結果の発生を回避するために相当な,一定の作為または不作為に動機づけをあたえるべき義務」として把握したうえで,信頼の原則は「危険の分配の一面の問題であり,いいかえると,具体的事案についての適切な注意義務を認定するにあたって当然に考慮されるべきものにほかならない」とされる。

 このように,信頼の原則を体系上,過失犯論のどこに位置づけるかをめぐって見解が多岐に分かれているが,わたくしは,客観的注意義務の認定に影響を及ぼす思考原理としてこの原則を捉え,客観的注意義務は予見義務および結果回避義務からなるので,⑤説のように解するのが妥当であるとおもう。

しかし,このような学説の対立は,「単なる説明の仕方の相違をこえた実質的な帰結の相違をもたらしうるのかどうかという点を具体的事例に則して検証しなければならないであろう」(中山)

4 信頼の原則の適用範囲

 信頼の原則は,主として交通事犯に関して,形成・適用されてきたものである。しかし,この原則の適用は,これにかぎられない。信頼の原則は「過失一般,とくに被害者または第三者の行動が結果惹起に関係するような態様における過失の認定一般について広く用いること」のできるものなのである。(西原)すなわち、「信頼の原則は・交通事故特有の法理ではなく・危険防止について協力分担関係にあるすべての分野において問題となる法理である」 (藤木)。現在,この点について争いはないといってよい。複数の人間が相互に相手の行動を信頼しつつ分業でことを行う場合の例についていえば、たとえば、外科手術を担当する医師、特別の事情がないかぎり、用意された器具が消毒済みであることを信頼してよいし、局方品を注文した食品製造業者は、局方品のレッテルの貼られた薬品の中味が真実局方品である」ことを信頼してよいことになる(西原)

5 判例

 最高裁が,はじめて明示的に信頼の原則を採用したのは,昭和41614日第三小法廷判決である(刑集2・巻5449)。同判決は,「乗客係が酔客を下車させる場合においても,その者の酩酊の程度や歩行の姿勢,態度その他外部からたやすく観察できる徴表に照らし電車との接触・線路敷への転落などの危険を惹起するものと認められるような特段の状況があるときは格別,さもないときは,一応そのものが安全維持のために必要な行動をとるものと信頼して客扱いをすれば足りるものと解するのが相当である」として、私鉄駅の乗客係の過失を否定した。

 自動車事故に関して信頼の原則をはじめて適用した最高裁判決は・昭和411220日第三小法廷判決(刑集20巻10号1212)である。同判決`は、「本件のように,交通整理の行れていない交差点において、右折途中車道中央付近で一時エンジンの停止を起こした自動車が、再び始動して時速約五粁の低速(歩行者の速度)で発車進行しようとする際には、自動車運転者としては、特別な事情のないかぎり,右側方からくる他の車両が交通法規を守り自車との衝突を回避するため適切な行動に出ることを信頼して運転すれば足りるのであって,本件被害者の車両のように,あえて交通法規に違反し,自車の前面を突破しようとする車両のありうることまでも予想して右側方に対する安全を確認し,もって事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務はないものと解するのが相当」であるとして,被告人の過失を否定したのである。

 その後,最高裁は交通事故に関して信頼の原則を適用して被告人の過失を否定する判決を次々と下している。たとえば,右折車両と後続車両との関係について(最判昭和421013刑集2181097),一時停止の標識のある道路との交差点に進入する車両とその交差道路から進入する車両との関係について(最判昭和431217刑集22131525),広路から交通整理のおこなわれていない交差点に進入する車両と狭路からの進入車両との関係について(最判昭和451117刑集24121622),交差点で左折する車両と後続車両との関係について(最判昭和46625刑集254655),黄信号で交差点に進入する車両と赤信号の交差道路から進入する車両との関係について(最判昭和48522刑集2751077),それぞれ信頼の原則を適用して被告人の過失が否定されたのである。このようにして,交通事犯に関して信頼の原則は,判例上,完全に確立され,学説の支持を得ている。

 交通事犯に関して,ややもすれば絶対責任あるいは結果責任に近い形で車両運転者に対して過失責任の追及がなされがちであったが,自動車交通の発展・普及・整備とともに自動車運転の大衆化が進み,最高裁によって信頼の原則が採用され,多くの者が刑事罰から解放されたことの意義はきわめて大きい。最近では,むしろ信頼の原則の機械的な適用による不都合が懸念されるに至っている。しかし,この原則の適用の限界については慎重な検討が必要であるとおもわれる。

 道路交通以外の生活関係(医療事故)において信頼の原則の適用をみとめた判例を見ておこう。外科医A,動脈管開存手術の際,介助看護師Bが電気メス器のケーブルを誤接続させたのに気付かずに,その電気メスを使用して患者に災蕩を負わせたという事案において,札幌高裁は,次のように判示して執刀医の過失を否定した(いわゆる北大電気メス誤接続事件)。すなわち,「執刀医である被告人Aにとって,前叙のとおりケーブルの誤接続のありうることにっいて具体的認識を欠いたことなどのため,右誤接続に起因する傷害事故発生の予見可能性が必ずしも高度のものではなく,手術開始前に,ベテランの看護婦である被告人Bを信頼し接続の正否を点検しなかったことが当時の具体的状況のもとで無理からぬものであったことにかんがみれば、被告人Aがケーブルの誤接続による傷害事故発生を予見してこれを回避すべくケーブル接続の点検をする措置をとらなかったことをとらえ,執刀医として通常用いるべき注意義務の違反があったものということはできない」と判示したのである(札幌高判昭和5・・3・・8高裁129巻・号78)これは、共同医療行為に関する先例として重要な意義を有する判例である。

前田雅英 

刑法総論講義[第4版] 東京大学出版 2006.

第5章      主観的構成要件要素 268

信頼の原則

 被害者ないし第三者が適切な行動を取ることを信頼するのが相当な場合には,たとえそれらの者の不適切な行動により犯罪結果が生じても,それに対して刑責を負わなくてよいとする理論を信頼の原則という(西原178).この信頼の原則も新過失論,さらには許された危険の考え方と深く結びつく.新過失論者は,相手の違反行為にまで対処するだけの高度な結果回避措置を要求するのは不合理であるとし,結果回避義務を軽減する手段としたのである(藤木244).

 信頼の原則は,最高裁にも採用されわが国に定着していく(最判昭411220刑集20101212,最判昭421013刑集2181097).そして,当該原則の適用領域も,交通事故関連に限定されることなく,企業活動や医療活動にまで認められるようになる(札幌高判昭51318高刑集29178).

 ただ,信頼の原則が働く場合は,「被害者等の不適切な行動を一般人が予見し得ない場合」と解することもできる.旧過失論の側からは,同原則は,刑法上処罰に値する程度の予見可能一性の有無を判別する基準ということになる(曾根188)10).

 交通事故における信頼の原則は,基本的には,車対車の場合に限るべきであろう.車対人の場合に適用するには特別の事情が必要で,被害者が老人や幼児の場合はほとんど認められない.突飛な行動の予見可能性が否定できないからである.

 「最決平成16713(刑集585476),普通乗用自動車を運転して交差点を右折するため,同交差点手前の片側2車線の幹線道路中央線寄り車線を進行中,対面する同交差点の信号が青色表示から黄色表示に変わるのを認め,さらに同信号が赤色表示に変わるのを認めるとともに,対向車線上を時速約70ないし80㎞で進行してくるA運転の自動2輪車のライトを,前方50m余りの地点に一瞬だけ見たが,対向車線の対面信号も赤色表示に変わっておりA車がこれに従って停止するものと即断して右折し,実際には対面する青色信号に従って進行してきたA車と衝突したという事案に関し,「本件交差点に設置されていた

信号機がいわゆる時差式信号機であるにもかかわらず,その旨の標示がなかったため,被告人は,その対面信号と同時にA車の対面信号も赤色表示に変わりA車がこれに従って停止するものと信頼して右折進行したのであり,そう信頼したことに落ち度はなかった」という被告人の主張に対し,「交差点を右折進行するに当たり,自己の対面する信号機の表示を根拠として,対向車両の対面信号の表示を判断し,それに基づき対向車両の運転者がこれに従って運転すると信頼することは許されない」と判示した。

 たしかに本件のように,現認できない対向車両の対面信号のみを根拠として,現認している対向車が減速停止すると考えても過失責任は否定すべきではないであろう.運転者は,基本的に,対面する信号・標識標示に注意してこれに従うことが要求されているし,道路状況,車両の位置関係等の具体的状況を考慮することなく判断することは許されない.時差式信号機もかなり見られる現在,対面信号が赤に変わろうとしていたとしても,右折時に直進する対向車両が侵入してくることの予見可能性は可能であり,それに応じた注意義務が認められる。」

10)注意義務限定説は,行為者自身に交通法規違反があれば相手への信頼を認めないクリーンハンドの原則と結びつきやすいが,最高裁は,行為者に違反がある場合にも信頼の原則を認めている。

大谷実vs前田雅英

『エキサイティング刑法総論』有斐閣  2002

はしがき

 刑法学は、法律学のなかでも最も学説の対立が激しい分野であるといってよいであろう。そこで、刑法解釈上の問題点を理解するためには、対立する学説の「やりとり」をフォローすることが最も有効な手段とされてきた。教科書も「自説」のみを講じるスタイルのものは例外であって、対立するいくつかの学説の問題点を整理したうえで、「自説が妥当である」と説くことが多い。ただ、教科書は、一人の書き手が自分の都合の良いように対立説を料理して配列するのが普通であるから、その著者の説が圧倒的に合理性があり、正しいものであるように見えてしまうのである。・・・

エキサイティング刑法 10過失について 

5 信頼の原則

前田 信頼の原則は、我が国に定着したと言っていいと思うのですが、先生は、新過失論に関連する理論、つまり結果回避義務に関する原則であるということですね。

大谷 そう考えていただいて結構です。

前田 藤木先生も同じようなお考えでしたね。

大谷 結果回避義務を否定するための基準として信頼の原則を捉えるという立場です。私は、初め予見可能性を限定するテストであると考えて藤木博士の信頼の原則の考え方を批判したのですが、過失の実行行為を強く意識するようになってからは、藤木説を支持しているのです。

前田 ただ、新過失論者でも、西原先生は、信頼の原則をむしろ予見可能性の問題に引き付けて構成されていると思うのです。信頼の原則というと、西原先生の業績が非常に大きた影響力を持ってきたと思うのですが、大谷先生が、信頼の原則を予見可能性の問題ではなくて結果回避義務を限定する基準だというふうにお考えになる決定的理由はどのあたりなのでしょうか。

大谷 この問題は、過失をどう考えるかということと密接に関連するわけですが、過失の定型性ないし実行行為性を明らかにすること、それから、前にも言いましたように、予見可能性は程度を付けうるものですので、西原博士のように刑法上の予見可能性を引き出すために信頼の原則を使うとしますと、基準があいまいになるという点が主な理由です。結果回避のために社会生活上必要となる注意を尽くしていたかどうかを決める基準としてこの原則を捉えるほうが分かりやすいのではないか。

前田 そうですね、私などは、道路交通規則を全く無視した飛出し方をしてきたバイクを、規則を遵守して走行していた自動車運転手がはねた場合、そんな飛出しは、一般的な運転者として予見できないから過失犯は成立しないと考える訳です。それを、「そのような飛出しをしないと信頼して運転をしてよい」と表現するわけです。それに対しては、いや、運転する以上、飛出しというのはありうるという批判が、常に存在するわけです。ここでも予見可能性というのは規範化すると言いますか、事実上の予見可能性ではなくて、法的に重要な程度の予見可能性という判断が入ってくる。その分曖昧であると言えば曖昧ですがね。

大谷 西原説は、信頼の原則は「事実的自然的予見可能性の中から刑法的な予見可能性を選び出すための原理」

(『刑法総論〔改訂版上巻〕」(一九九五年)二〇五頁)としまして、事実上の予見可能性を認めたうえで、刑法上の予見可能性を判断する基準として信頼の原則を使うわけですね。私は、そこでいう「刑法上」のという意味がよく分からない。結局「処罰に値する程度」ということなのでしょうが、そうすると過失が非常に実質化されてしまうのではないか。むしろ、相手方が信頼するのが相当といえるときには、結果を防止するために社会生活上必要な防止措置をとる必要はないとして、実行行為性を否定するテストとして意味があると考えるのです。逆に言いますと、そういう状況にあるときは刑法に注意義務を求めていないということです。過失犯となるかどうかについても、こうした定型的判断が大切だと思うわけです。

前田 私は、「処罰に値する」という判断は不可避だと思います。ただ、正直申し上げて、信頼の原則は、基本的には、新過失論になじむ原則であると思います。学説史的にも、結果回避義務中心の新過失論の発展と結び付いて出てきた処罰限定原理ですし、理論的にも、「結果回避義務を限定する」というほうが分かりやすいことは私も認めます。ただ、信頼の原則が適用され不可罰にすべき事態は、やはり、旧過失論に立ちましても無罪になるし、それを、予見可能性中心に説明しうると申し上げたいわけです。

飯田英男

『シリーズ操作実務全書 10 環境・医事犯罪』 東京法令出版  1999

第2章2.医業過誤と刑事責任 2医療過誤と刑事責任

298

(1)医療過誤における「許された危険」と「信頼の原則」

ア許された危険

医療行為は、本来疾病の存在を前提として、人の身体に医的侵襲を加えて疾病を除去しようとするものであるから、それ自体が身体に対する危険な行為を含むものである上、現代の医学にも未解明の部分が多く残っており、ある疾患に対しては一定方向の処置があり、これに対して一定の治癒方向の反応があるという一定の方式性は認められるものの、患者の個体差や生体反応の多様性などとも相まって、医療行為自体が大きな危険性を内包していることは否定できない。一方、医療行為に従事する医師は、疾病の治癒を目的として医療行為を行うものではあるが、その反面、医療行為による好ましくない結果の発生(例えば、手術の失敗による患者の死亡や薬の副作用による傷害の発生など)を予見することが可能であり、現に危険な結果の発生を予見しながら敢えて手術を行うことも少なくないといえる。もちろんその場合には、可能な限り危険な結果の発生を防ぐための処置を講じることは必要であるが、結果が失敗であれば、常に違法であるとして刑法上の責任を問われるというのでは、医師に対して余りにも過酷な責任を負わせることにもなりかねないし、また、このような危険を避けるために医療行為を全面的に回避するということは、国民の健康の回復や増進のうえからも認め難いところである。

「許された危険」の法理とは、このように社会生活の中で有益な目的を達成するために必要な行為は、その行為の性質上、法益侵害の危険をある程度不可避的に内包しているとしても、社会生活上必要な注意を払い、予想される危険に対して一定の予防措置を講じつつ行われる場合には、その社会的有用性のゆえに危険な行為が許されるとするものである。

「許された危険」の法理が適用される場面としては、飛行機、自動車、電車などの高速度交通機関、近代的な建築・土木工事や化学工場など、現代社会にとって必要不可欠な科学技術などとともに、医療行為もその典型とされている。「許された危険」は、新過失論と結びついて過失犯の処罰範囲を限定する法理として発展してきたものであるが、現在では、伝統的過失論の立場からも、違法性阻却事由の一つとして、行為の有用性・必要性と法益侵害の危険性の程度を具体的に比較衡量し、前者の利益が優越していると認められるときは、たとえ法益侵害の危険性のある行為であっても許されるとしている(前田雅英「許された危険」中山研一ほか編『現代刑法講座325頁・成文堂)

ところで、医療過誤裁判例の中には、「許された危険」の法理を正面から採用した事例は認められないが、「医師は人命を尊重すべき反面において、逆に人命を救うために、ある程度の危険のあることを知りつつ、危険を冒しても思い切った処置をとらなければならない症例がある。このような場合には、たまたま処置に失敗があっても法律上責められるべき過失とはいえない。」(静岡地判昭39.11.11下刑集6.11-12.1276)とする判旨には、明らかに「許された危険」の考え方が認められるといえる。

この法理が実務に大きな影響力を有していることは否定できないと思われる。

しかしながら、この法理が医療過誤における医師の処罰範囲をより限定的に解すべきであるとする論拠として、しばしば主張されていることには注意しなければならない。新過失論の立場からは、この法理を故意犯(未必の故意)も含めたできるだけ幅広い範囲に適用しようとするが、伝統的過失論においては、このような姿勢に疑問をもっており、「許された危険」の適用範囲はかなり狭いものであるとしている(前田・前掲書45)ことに留意する必要がある。

両説の対立は、違法論における行為無価値と結果無価値の対立にさかのぼるが、その点の説明は教科書に譲るとして、新過失論は、注意義務の中心を結果回避義務ととらえ、客観的に認められる一定の基準行為を怠ることが過失であるとすることから、一般化・抽象化された行為準則を基準にして必要な結果回避措置が尽くされたか否かを中心に過失を判断しようとする点において、予見義務・予見可能性を中心に過失の有無を判断しようとする伝統的過失論とは異なる。具体的な事件において両説の違いが果たしてどれだけの差異あるのか一概にはいえないと思われるが、医療過誤事件においては、医療行為の相当性と法益侵害の結果のいずれを重視すべきかという両説の立場の違いが鮮明になることは確かであろう。

イ信頼の原則

 信頼の原則は、本来、道路交通における責任分配の原理として判例上形成され、発展してきたものであるが、自動車交通の増大に伴う交通事故の激増という近代社会における避け難い現象を前提にして、道路交通の円滑化・能率化という社会的要請を受けて、行為者の注意義務の範囲をある程度限定して、事故の責任をすべて行為者の負担とすることの不合理性の是正を図ろうとするものであり、社会生活上有用な行為については、法益侵害の危険があっても必要な注意を払って行われる場合には一定の範囲で許されるとする点で、「許された危険」の法理とも基盤を同じくするものである。

 信頼の原則は、道路交通の領域だけでなく、複数の人が危険な共同作業を分担して行うことが必要とされる領域においても適用されるとして、医療過誤の分野にも信頼の原則が適用されるとする見解が有力であるが、人の生命・身体を直接の対象とする医療の分野において、信頼の原則を適用する余地があるかについては、場合を分けて慎重に検討されなければならないと考える。

()医師と患者の関係

医師と患者の間では、医師は医学上の専門的知識と技能を独占的に保有するのに対して、患者は疾病に侵されて自己の生命・身体のすべてを医師に委ねざるを得ない立場にある上、疾病あるいは医療行為による心神喪失ないし心神耗弱状態にあることも多い。また、医療が患者の協力なしには成り立ち得ないことも事実であるが、信頼のできる医師をもたないために多数の医師をめぐり歩くような現実の医療状況とで、一方で、「一時間待ち三分診療」などといわれるように、医師側がインフォームド・コンセント(医師の十分な説明とこれに基づいた患者の同意)について、その必要性を十分認識して、誠実に実行しているとは言い難い医療の現状を考えると、医師と患者の間において基本的な信頼関係が確立していると解し得る一般的状況にあるとは到底思われない。したがって、患者が医師の指示を十分に理解していながら自己の信念に基づいて敢えて指示に従わないというような特別の場合は別として、一般的に医師と患者の間においては信頼の原則が適用されるとすることは相当ではなく、仮に患者側に医師の指示通り服薬しないとか、医師の指示に反する等の過失があったとしても情状として考慮すれば足りるのであって、信頼の原則を適用しなければ解決できない問題とは解されない。

()医療関係者相互間

共同作業者間における信頼の原則の適用を認める立場からは、医療関係者相互間における信頼の原則の適用の範囲が最も間題となる。この点について積極的に適用すべきであるとする立場からは、医師と看護婦など医療補助者の間あるいはチーム医療における医療従事者相互間においては、各人の分担業務が確立しており、互いに相手の行為を信頼し合う関係なくしては近代的な医療システムは機能し得ないとする。北海道大学電気メス事件(札幌高判昭51.3.18高刑集29.1.78)は、介助看護婦が電気メス器のメス側ケーブルと対極板ケーブルを交互に誤接続したことに気付かないまま、執刀医が電気メスを使用して患者に重度の熱傷を生じさせたものであるが、判決は、介助看護婦については、ケーブルの誤接続により本体からケーブルを経て患者の身体に流入する電流の状態に異常を来し、電流の作用による傷害を被らせるおそれがあることは予見可能であったとしながら、執刀医がベテラン看護婦を信頼してケーブルの接続の正否を点検しなかった点に注意義務違反があったとはいえないとしている。この判決をめぐっては、信頼の原則の適用を認める立場と否定する立場、限定的な適用を認める立場と様々な見解がある(拙著「北海道大学電気メス事件」唄孝一ほか編『医療過誤判例百選〔第2版〕』50頁・有斐閣)

そこで、まず医師と看護婦など医療補助者の関係についてみると、医療行政上は医療の専門性にかんがみ診療の責任は医師に一元化されており、両者は対等の関係ではなく、看護婦の業務は「療養上の世話又は診療の補助」(保助看法5)に限定され、看護婦はあくまで医師の手足として医師と一体となって行動すべきものとされている(「医療の一体性」)。また、看護婦の行う診療の補助行為は医師の視認範囲内にあることが多く、特に、危険性のある補助行為については、医師の直接の監視下で行われることから、医師が十分に注意していれば補助者の誤りは是正することができるといえよう。このような観点から、医師は、医療補助者の行為が適切に行われるように絶えず補助者を指導・訓練し、不適切な行為に対しては具体的にこれを補足・是正して、患者に危険を及ぼさないようにする義務があるが、その反面、医師が医療補助者の行為のすべてについて、細部にわたり自ら直接確認すべきであるとすることが困難な場合(具体的には、現に執刀中の医師など極めて例外的な場合に限られる)には、十分に訓練された医療補助者の行為に対しては、補助行為の危険の程度等をも考慮して一定の範囲で信頼することが許されると解する余地がないとはいえないと思われる。しかしながら、医療の現場においては、前記のように診療の責任が医師に一元化されていることもあって、本来、医師が行うべき医療行為の相当部分が医師の指示・監督の下に医療補助者によって行われていること(過去の刑事医療過誤に関する裁判例には、かかる事例が多数含まれている)を前提にすると、そもそも信頼の原則が適用される前提になる医療従事者相互間の業務分担が確立しているといえるのかという疑問がある。医療行為の分野では、このように医療従事者相互間の業務分担自体があいまいなのは、両者の業務形態そのものが医療現場の状況によって異なっているため、いわば慣行に基づいて行われている場合が多く、業務分担を基礎づける内規等を欠いているか、内規等がある場合でも抽象的な内容であることが多く、事故防止の観点をも考慮した具体的な内容にはなっていないことによるものと思われる。例えば、前記の北海道大学電気メス事件においても、手術機械・器具類のセット責任が手術部、診療科のいずれにあるかについて、内部的な意見の対立があったとされている上、医療チーム内部における執刀医とその他の共同医療従事者の業務分担も明確でなく、チームを指揮統率する責任者が誰であるかすら特定することができない状況にある(本件判決では、指導医がチームの指揮統率についていかなる権限を持っていたのか断定できないとしながら、指導医がいる以上執刀医は指揮統率すべき地位になかったとするが、チームには指揮統率者が必要と解するのであれば、指導医に指揮統率する権限がなければ、執刀医が指揮統率していたと解するのが当然であり、これを否定するのであればチームの指揮統率者は不要と解さざるを得ないことになるのではないだろうか)。このような状況下においては、具体的な危険の発生を防止するのに必要な医療従事者相互間の業務分担が確立していたとは認められず、信頼の原則を適用できる条件が整っていたと解することには疑問があるといわざるを得ない。

(2)注意義務

ア医療過誤における注意義務の特殊性

最高裁は、輸血梅毒事件に関する民事判決(最判昭36.2.16民集5.2.244)において、「注意義務の存否は、もともと法的判断によって決定さるべき事項であって、仮に所論のような(給血者が証明書、会員証等を持参するときは問診を省略する)慣行が行われていたとしても、それは唯だ過失の軽重及びその度合を判定するについて参酌さるべき事項であるにとどまり、そのことの故に直ちに注意義務が否定さるべきいわれはない。」としていることからみれば、注意義務の存否が法的判断事項であることは明らかである。しかしながら、医療過誤においては、過失の存否をめぐる法的な判断は医学的な判断と極めて密接な関連性を有しており、医学的な判断を媒介としてなされざるを得ない場合が多いところに難しさがあり、また、医師側から、医学的には相当な処置をしているのに法律上の責任を問われるのは、法律家の医学に対する無理解による不当なものであるとの非難がなされるのも、多くはこの点に起因すると思われる。この点に関して最も間題となるのは、注意義務の基準となる「医療水準」と「医療慣行」の関係であるが、たとえ医療慣行が医師の社会における一つの社会規範として機能しているとしても、医学が高度の専門的分野に属する事柄であることを理由に、医師社会における規範をもってすべての社会を律する基準にすることができないのは当然であり、法的な観点からみれば、医師社会における慣行を基準にすることは相当でないと判断されたからといって、これを不当とする医師側からの批判は当を得たものではないと考える(最判平8.1.23民集50.1.1参照)

山本徳美

『過失犯処罰と刑事医療過誤』 2007年

第二章 過失犯の構造 13頁

1V信頼の原則

 「信頼の原則」とは、「行為者がある行為をなすにあたって、被害者あるいは第三者が適切な行動をすることを信頼するのが相当な場合には、たとえその被害者あるいは第三者の不適切な行動によって結果が発生したとしても、それに対しては責任を負わない」(西原春夫『交通事故と信頼の原則』196914頁。)とする原則をいう。この原則はドイツにおいて交通事故の過失犯の成立範囲を限定する趣旨で用いられたものであるが、日本では昭和41年に最高裁が自動車事故における業務上過失にこの理論を適用し過失犯の成立を否定したものがあり(29)、その後「北大電気メス事件」のようなチーム医療の現場で複数の人間が関与して法益侵害が生じた事案にも適用するに至っている。学説の中には、職務内容の異なる複数人の分業と共同作業から成立するチーム医療に信頼の原則を適用すべきではないとして批判的な見解もあるが(30)、現代では医療の高度化および専門化に伴いそれぞれの専門分野の人間から成るチーム医療が一般的であり、信頼の原則を排除するのは妥当でない。学説も過失犯の成立範囲の適正化を実現するために信頼の原則を認めることが有益だとする見解が多数説である(31)。

 信頼の原則の適用要件は、①他人が適切な行動に出ることを信頼するにたりる具体的状況が存在し、②信頼が存在すること、③信頼が客観的に相当であることであり、これらの

要件がみたされると、結果が予見可能であるかどうかにかかわらず結果回避義務は否定さ

れ過失犯は成立しない。この根拠は、不適切な行動をとる者があるかもしれないということを前提条件として、行為者に結果の予見可能性に基づく結果回避義務を課すことは不可能を強いることになるという点にあり、行為者の不注意が重大である場合や、他の関与者の不適切な行動が当然に予見できる、あるいはそもそも適切な行動をとることが期待できない相手が関与している等の「特別な事情」がある場合を除き、他の関与者が適切な行動をとるであろうことを信頼して行動すればそれで足りるとする。この「特別な事情」の解釈については、過失犯の成立を結果の予見可能性に求める旧過失論と、予見可能性の程度に応じた結果回避義務違反に求める新過失論の間で相違がある。旧過失論からは、不適切な行動と法益侵害結果の間に条件関係が認められても、①行為者の不適当な行動が他の関与者にとって既成事実となっており、他の関与者がその不適当な行動を考慮にいれて行動していると考えることが相当である場合、②自己に不適当な行動があるか否かにかかわらず、およそ相手の行動を信頼するのが相当である場合には「信頼の原則」が適用されて過失を否定すべきだと主張される32。一方、新過失論は他者の責任領域が自分の責任領域から予見可能であったとしても、それに対応する結果回避義務をとることまでは要求せず、このようなときは結果が予見可能であっても信頼の原則を適用し過失が否定されるとするのである。

29見通しの良い直線道路上を時速約20kmで運転し右折しようとした被告人の第一種原動機付自転車と、右後方から時速約70kmで追い越そうとした被害者の運転する第二種原動機付自転車が接触し、被害者は転倒して頭部外傷等により死亡した事件で「後方からくる他の車両の運転者が…安全な速度と方法で進行するであろうことを信頼して運転すれば足り業務上の注意義務はないものと解するのが相当である」として過失犯の成立を否定した(最判昭和421013日刑集2181097頁。

30船山泰範「医療過誤と過失犯論の役割」板倉宏博士古希祝賀論文集編集委員会編「現代社会型犯罪の諸問題』2004207頁、加藤久雄『医事刑法入門噺訂版12004147頁など。

31萩原由美恵rチーム医療と信頼の原則」上智法学200549265頁、内田文昭『犯罪構成要件

該当性の理論』1992109頁以下、米田泰邦r医療における未知の事故とチーム医療における医師の刑事責任一北大電気メス事件第一審判決によせて」判例タイムズ316197558頁、西原春夫「監督責任の限界設定と信頼の原則」法曹時報3031978376頁、大谷實「医療事故と刑事責任」加藤一郎・森嶋昭夫編『医療と人権』1984421頁、佐久間修『先端領域の刑事規制一医療・経済・IT社会と法一』200396頁、松倉豊治「医学と法律の間』1977377頁、青柳文雄『刑事裁判と国民性・医療編』1989120頁など。

以上

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2008年6月 5日 (木)

資料⑪ 「東京女子医大事件」とは→東京女子医大事件の概略 時系列

「東京女子医大事件」とは

東京女子医大“刑事”事件

 業務上過失致死

東京女子医大“心臓手術死亡事件

人工心肺の作動中に、発生した脱血管への空気の混入による脱血不良発生直後に患者の顔面を確認すると、既に顔面が異常に腫脹して脳障害が出現。意識を回復することなく死亡した事件。

キーワード:上大静脈のカニュレーション、下大静脈のみパーシャルバイパス、吸引回し、フィルターの閉塞、ヘッドダウン

東京女子医大“人工心肺回路人工心肺フィルター閉塞”事件

                脱血不良が発生し、脱血管内に空気が大量に混入、脱血管に空気が逆流したとされる場合。

(上大静脈への逆流は目撃者なく、認定されていない。)

                キーワード:フィルターの閉塞、レギュレータの機能

術野は鉗子で脱血管を閉鎖→大気開放しても脱血管から脱血しない技士供述の齟齬

 証拠隠滅

東京女子医大カルテ改竄事件-判決確定

                            担当講師の単独の判断で、カルテの改ざん。

                            担当講師と弁護人が教授に責任を転嫁しようとしたが、認められなかった。      

                           

遺族が教授を告訴したが、不起訴

東京女子医大“民事”事件

 不当解雇、名誉毀損

東京女子医大“マッチポンプ”事件(東京女子大“幹部不正”事件)

              「白い虚塔」を超えた大学病院の恥部に対する提訴

女子医大自身が、虚偽の内容を含む内部報告書を作成・公表した結果、捜査機関が捜査を誤って逮捕、起訴に及び、そのことを根拠として女子医大が諭旨解雇した不当解雇。内部報告書の作成・公表が名誉毀損に当たり委員長 東間元病院長を提訴。

 名誉毀損(一部肖像権侵害)

東京女子医大“逮捕後報道名誉毀損”事件

     逮捕直後の報道内容の誤りが名毀損に当たるか否か。

    三学会報告書発表以後の書籍等の内容の誤りが名誉毀損に当たるか否か。

東京女子医大“判決報道名誉毀損”事件

                            無罪判決直後の報道内容が名誉毀損に当たるか否か。

東京女子医大事件の概略 時系列

検察側提出証拠、個人的記録、信頼できる報道より明らかなことより

前提

東京女子医大 循環器小児科、循環器小児外科

                                          姑息術後、根治術前に病状を把握しきれない全国に散在した患者の存在

                                          地元小児科医との連携不足

                                          手術時期選択の誤り 家族主導等

先天性心疾患における生涯計画と手術時期

                                          手術時期の選択決定の問題 ●。「●」

美容面を重視した小皮膚切開胸骨部分切開の流行と手術説明

                                          病棟での小さい創部比較が担当講師に影響か

女児は、乳房下切開胸骨全切開が基本

1994年                                                            陰圧吸引脱血法 臨床応用本邦最初の報告-大垣市民病院

日本胸部外科学会誌 1994年巻頭論文

1995<