自己紹介 

2010年1月31日 (日)

橋下徹弁護士の矛盾

橋下徹弁護士の矛盾

1.            

橋下弁護士への懲戒請求と提訴

 Asahi.comによると、「大阪府知事選への立候補を表明したタレントとしても活動している橋下徹弁護士が、99年に山口県光市で起きた母子殺害事件の被告弁護団の懲戒請求をテレビ番組で視聴者に呼びかけたことをめぐり、全国各地の市民ら約350人が12月17日、橋下氏の懲戒処分を所属先の大阪弁護士会に請求する」とのことである。さらに「『刑事弁護の正当性をおとしめたことは、弁護士の品位を失うべき非行だ』と訴える。発言に対しては、被告弁護団のメンバーが1人300万円の損害賠償訴訟も広島地裁に起こしている。懲戒請求するのは京阪神を中心とした11都府県の会社員や主婦、大学教授ら350人余り。刑事裁判で無罪が確定した冤罪被害者もいる。橋下氏は、5月27日に大阪の読売テレビが放送した『たかじんのそこまで言って委員会』で、広島高裁の差し戻し控訴審で殺人などの罪に問われている元少年(26)の弁護団の主張が一、二審から変遷し、殺意や強姦(ごうかん)目的を否認したことを批判。『許せないって思うんだったら、弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい』などと発言した。17日に提出される懲戒請求書によると、元少年の主張を弁護団が擁護することは『刑事弁護人として当然の行為』と指摘。(橋下弁護士の)発言は弁護士法で定める懲戒理由の『品位を失うべき非行』にあたるとしている。弁護士への懲戒請求は、弁護士法で『何人もできる』と定められている。請求を受けた弁護士会が『懲戒相当』と判断すれば、業務停止や除名などの処分を出す。 橋下氏は、元少年の弁護団のうち4人が9月に起こした損害賠償訴訟での答弁書で『発言に違法性はない。懲戒請求は市民の自発的意思だ』と反論した。15日、朝日新聞の取材に法律事務所を通じて『(懲戒請求されれば)弁護士会の判断ですので、手続きに従います』とコメントした。」とのこと

2.            

橋下徹という弁護士とプロフェッショナル

 橋下徹氏は、テレビタレントとして活動する「有名な弁護士の資格をもつ人」であることは事実だが、プロフェッションとして「有名弁護士」とは言えない。(私は思っている。)このプロフェッションだが、聖路加病院の日野原重明先生の最近の言葉でこのようなものがあった。「Profession』という言葉には、神に告白(Profess)する、約束する、契約するという意味があります。神学と法学と医学のプロフェッションには、明らかにその精神が垣間見える。底通するのは、学問を修めるにとどまらず、持っている能力を社会の繁栄と人々の幸福のために活かすと神に誓うから「プロ」であるという精神。欧米で、神職者、法律家、医師が、専門職能集団の中でもトップのプロフェッショナルな集団とされてきた理由はそこにあります。そして、使命感を持った人が公言し、神と約束しているわけですから、第三者が彼らの仕事の内容を批評するのも当然のこと。医師のプロフェッショナリズムの本質を知るには、そこまで理解する必要があります。また、スペインの教育者であるオルテガの言葉を借りれば―─大学で最高の教育を受けプロフェッションの道に進むとは、生涯を通して学びつづける道を選ぶこと――です。プロフェッショナルは自分を磨きつづけて当然だし、文化に貢献し、文化を次世代に伝えるミッションを持っている点も自覚してほしい。」日野原先生は、神父さんの家に生まれたと記憶しているが、古来から、神学者や真の宗教家、法律家、医師は、「プロ」の精神を持つべき職業であるということだ。そういった視点から見ると、橋下弁護士は、プロとは呼べない。医師にも似たような輩がいる。「有名な医師を職業とする人」であって、「有名」でも「有能」でもないのにメディアで重宝がられるような、おしゃべり上手な‘エセプロ‘。

3.            

光市母子殺害事件と法律家としての弁護士

 光市母子殺害事件に関しては、言葉にするのがイヤなくらい私も犯人を憎んでいる。どんな状況であっても、妻や子に乱暴し、殺害したという事実が真実であれば、誰もが犯人に重罪望む。しかし、橋下弁護士は、ホームページの中で、「裁判なんて科学じゃない。」「刑を科すための社会手続きなんだ」「法律なんて所詮道具。」「刑事裁判というもの(は)被害者遺族のための制度であ(る)」等と述べている。「自らが持っている能力を社会の繁栄と人々の幸福のために活かすと神に誓い職業として弁護士を生業とする」といった高貴な志は全く感じられない自己矛盾発言である。橋下氏には東京地裁のエレベータ前で一度出くわしたことがあるが、テレビ出演時と同様の風体で、益々印象を悪くした。

4.            

弁護士は何のために存在するのか

 「弁護士は何のために存在するのか」という命題。特に、弁護人としての「プロフェッション」とは何か。勿論このような事柄に私が答えられるはずがない。岩波書店に依頼されて、月刊誌「世界」2007年11月号(25-28頁)に、喜田村洋一先生が投稿されているので、是非読んでいただきたい。

強姦・殺人事件の被告弁護男に向けられた懲戒請求。「社会に憎まれる人の側に立つ」という弁護士の職責が揺るがされている。

弁護士は何のために存在するのか

喜田村洋一

懲戒請求の呼びかけ

 光市母子殺害事件は、位置、二審の無期判決に対して検察官が上告し、二〇〇六年六月、最高裁が高裁判決を破棄して事件を広島高裁に差し戻した。このため、現在、二度目の高裁審理が行われている。

 その第一回公判は二〇〇七年五月二四日に開かれたが、その弁護団に対して、橋下徹弁護士が、五月二七日に放送されたテレビ番組で、「あの弁護団に対して、もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたい」などと発言し、この結果、二〇人を超える弁護人に対し、全国から四〇〇〇を超える懲戒請求が出されたという。

 橋下弁護士は、弁護団が、殺意を認めていた旧一、二審と違う主張をした理由を被害者と国民に対して説明せず、国民に弁護士はこんなふざけた主張をするものなんだと印象付けたことが、弁護士会の信用を害し、懲戒に相当すると述べている。

弁護方針の根拠は明らかにできるか

 しかし、新たな弁護方針を取った理由を説明することによって何が期待できるのだろうか。殺意の否認という弁護方針が非常識だと被害者・国民に理解されるとすれば、そのような弁護方針を選択した理由を説明しても、弁護士に対する怒りが消失するとは考えられない。そうすると、結局、同弁護士のいう懲戒事由とは、「ふざけた主張」と理解される弁護方針そのものということになる。

 一般に、弁護方針は、弁護人が、秘密保持義務を負う中で得た多数の証拠、情報の中から選択するものであり、その根拠を明らかにすることは原則としてできない。

 たとえば、今の弁護人は、最高裁段階でそれまでの弁護人に替わって選任されているが、新たな法医学鑑定によって、被害者の傷などが被告人の元少年の供述どおりではできないことが明らかになり、さらに、元少年との接見結果にも基づいて殺意がなかったと主張している。

 そして、元少年は、今年九月一八日の被告人質問で、旧一、二審で殺意を認める調書が存在したことについて、「取り調べ中、当初は否認していたが、検事から、否認していると死刑の公算が強まる、と言われて調書に署名した」「弁護人からも、検察の主張をのむことで無期懲役が維持されると言われたので、前の裁判では殺意を争わなかった」と述べている。

 殺意がなかったという新たな弁護方針に変えた理由を明らかにするためには、こういった事実すべてを差戻し後の高裁で審理が始まる前に被害者や国民に明らかにしなければならなくなる。

 しかし、裁判の中で明らかにすべき内容を事前に広く公表することは、秘密保持義務違反の問題が生じるし、裁判に不当な影響を与える可能性も考えられる。裁判を軽視するとも理解されかねない。

 したがって、第一回公判前に被害者や国民への説明がなかったことが弁護士の懲戒に当たるという考えは、実際の裁判の流れに照らしてみれば、そもそも成立しえない。

 しかし、この問題は、単に実務的な面だけではなく、裁判とは何か、弁護士の職責はどのようなものかという、より大きな論点に関係している。

法律は『所詮道具」か

?

 たとえば、橋下弁護士は、ホームページの中で、「裁判なんて科学じゃない。」「刑を科すための社会手続きなんだ」「法律なんて所詮道具。迷惑弁護団のバッジを取り上げるために、(懲戒を求める)裁判所の請求を認めるべきだった」と述べている。

 これは、法律の要件に事実があてはまるかどうか判断し、あてはまらなければ、常識的には納得できないとしても、「無罪」「懲戒しない」という結論を出すという法治主義の考え方とは全く異なっている。法律を「所詮道具」と言い切ってしまえば、裁判は、はじめからわかっていた結論(有罪、懲戒する)を下すための手続でしかなく、法律がそれに邪魔であれば解釈を変えてしまえばよいということになる。

 橋下弁護士は、さらに、「刑事裁判というもの()被害者遺族のための制度であ()」とも述べているが、そうだろうか。犯罪となる行為が何であるか、これに対してどのような刑罰が与えられるかは、あらかじめ刑法の中に規定されている。これにあてはまらなければ無罪であり、さらに、有罪と認定される場合でも法定刑を超える刑罰は科されないという刑法の役割からは、刑事裁判が被害者遺族のための制度という考え方は出てこないだろう。「刑法は犯罪者にとってのマグナ・カルタである」という逆説的な言葉は、刑法の自由保障的な機能をよく表している。

憲法に規定された弁護士

弁護士の職責を考えると、問題はさらに深刻である。弁護士は何のために存在するのかを考えるとき、出発点になるのは憲法だ。弁護士は、現在の憲法の中で規定されている唯一の民間の職業である(34条、37条等)。だから弁護士という職業をなくそうとすれば憲法を改正しなければならない。しかし現在、効力を持つ成文憲法の中で最も古い米国憲法でも「弁護士の援助を受ける権利」が規定されているのであり、実際には、憲法を改正しても弁護士制度を廃止することはできない。それほど弁護士が重要性を認められているのは何のためだろうか。それは憲法の規定そのものを見れば明らかだ。憲法は、身柄を拘束されている人(34)、刑事被告人(37)に弁護人依頼権を保障している。憲法は、国家から罪に問われ、あるいは身柄を拘束されている人々、そのような「弱者」のために弁護士は存在するとしているのだ。

 もちろん、弁護士の仕事はこれに限られるわけではないが、憲法という国家の基本を示し、権力の発動を抑制する根本規範が予定しているのは、弁護士のこのような役割である。

 これらの人たちは、その大部分が刑事被告人、被疑者であり、国家から憎まれる存在である。しかし、それだけではない。被告人、被疑者がいれば、これに対する被害者がいるのが普通だから、これらの人たちは社会からも憎まれる。弁護士は、そのような人たちの側に立ち、罪を犯していなければ無罪の、罪を犯した場合でも本人にとって最大限に有利な、主張、立証を行う。

 しかし、一般の人たちは、被告人をすべて有罪とみなし、さらに弁護士を犯罪者のために働いていると考える場合が多い。「どうしてあんな人間の弁護をするんですか」とは、私自身、何度も問いかけられた質問である。

社会との緊張関係

 そのような中で、最も憎まれる被告人を弁護する弁護士は、国家、社会と強い緊張関係を強いられることになる。光市事件でも、弁護人を抹殺するという脅迫状が報道機関に送られたという。しかし、どのようなことがあっても、弁護士は依頼者のためだけに職責を果たすのである。弁護士は、誠実義務を、被害者に対しても、社会に対しても負っていない。

 憲法が予定しているのは、弁護士が被告人のために全力を尽くし、検察官は国家を代表して立証を尽くし、中立の裁判官が公正な立場でこれを判断するという構図である。弁護土が、遠くのことを考えず、目の前にいる依頼者の最善の利益だけを考えて行動することによって、全体として社会は安定すると考えられているのである。

 もちろん、民主的な社会の中で、ある職業が存続し続けていくためには、その職業について社会から理解され、その必要性が認められることが必要である。しかし、そのことは、個々の事件において弁護士が、受任している事件の弁護方針を事前に社会に説明しなければならないことを意味するわけではない。

 まして、それを社会に納得してもらわなければならないということではない。そのような状態になれば、社会が弁護士の活動に直接に介入できることになってしまう。

 戦前は、検事正あるいは司法大臣が弁護士を監督していた。しかし、新しい憲法の下で、国家と緊張、対立関係にある職務を遂行する弁護士がこれらの者の監督を受けることは相当でないとして、現在の弁護士法では弁護士について監督官庁は置かれず、弁護士自治が現定された。この自治を担保するため、弁護士は弁護士会に登録を義務づけられ、弁護士に対する懲戒は弁護士会が行うこととなった。このように、弁護士会による懲戒は弁護士自治を基礎づけるものであるが、この自治は弁護士がその職責を十分に果たすことを保障するためのものである。

懲戒基準は世間の基準

?

弁護士の懲戒事由は、弁護士法等の違反、弁護士会の秩序又は信用を害すること、その他品位を失うべき非行とされている。橋下弁護士は、テレビの中で、一〇万人くらいの視聴者が弁護士会に懲戒請求すれば、弁護士会でも処分を出さないわけにはいかないと述べ、ホームページでは、「『弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為』の基準は、世間の基準」と主張している。

 しかし、もともと、弁護士会の信用が害されたかどうかは懲戒請求者の数で決まることではないはずである。それなのに、多くの人が懲戒請求すれば懲戒になるというのは、懲戒基準が「世間の基準」であるというのと同じく、「世間」の多くの人が非常識と考える弁護活動をしたら、それだけで弁護士は懲戒されるべきだという主張に他ならない(その基

礎にあるのは、法律は「所詮道具」という考えである)

 これは、国家だけでなく、社会から憎まれる人の側に立つという弁護士の職責を考えるとき、弁護士の地位を著しく不安定にするものであり、そのことは「弱者」を守るという憲法の理念が実現されにくくなることを意味する。

弁護士の拠って立つ基盤

 最高裁は、今年四月二四日、弁護士に対する懲戒請求が違法となる場合があるとの判決を下した。この事件では、A社がB社を訴え、これが棄却された後、B社が同じ裁判所にA社を訴えたところ、A社が、B社の弁護士を、「この裁判所にA社を訴えたのは品位を失う非行だ」として懲戒請求していた。最高裁は、B社弁護士の提訴が非行に当るはずがないとして、A社弁護士の懲戒請求書の作成を違法としたが、弁護士出身の田原睦夫裁判官は、弁護士が懲戒請求の代理人等として関与する場合、「懲戒請求の濫用は現在の司法制度の重要な基礎をなす弁護士自治という、個々の弁護士自らの拠って立つ基盤そのものを傷つけることとなりかねないものであることにつき自覚すべきであって、慎重な対応が求められ

る」との補足意見を述べている。

 橋下弁護士自身は、「時間と労力を費やすのを避けた」(九月六日付産経新聞)ためもあり、懲戒請求をしていないが、多数の国民に懲戒請求を呼びかけたその行為が「弁護士自らの拠って立つ基盤そのものを傷つける」ことにならないかは慎重に検討される必要があるだろう。

(きたむら・よういち弁護士)

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2007年11月16日 (金)

検察官の証拠隠し

はじめに

 昨日、20071114日に第4回控訴審公判がありました。一審で無罪判決が言い渡されてから、検察官が控訴審での証拠提出を1年2ヶ月後に行うと自ら約束したのに、実際に提出したのは、その2ヶ月後。そしてやっと公判が開始された後も、とても意味のある証拠調べとは思えない公判が開かれ、だらだらと時間が過ぎています。私は自分がやりたいことも抑えてこれに対峙し、無駄な時が経過していくばかりです。

 私の席の前には、証言台を挟んで、検察官の席があります。

第1 「検察官の証拠隠し」と3つの事件

1.東京女子医大事件

 検察官。一般の読者は、「東京地検特捜部」等のイメージから、社会正義の代表のように検察官をイメージしているのではないでしょうか。しかし、私が見てきた検察の活動はそのようなイメージとは全く異なるものでした。

 東京女子医大事件では、「フィルターの閉塞」が原因でしたが、このフィルターは、薬事法上適応外のもので、しかも、パッケージに「一回限りの使用」と注意書きされているにも関わらず、繰り返し使用されていました。このようなことは、当然警察官が調べて調書にしているはずですが、検察官は最初から最後まで、これを提出せず証拠を隠しました。勿論弁護側は、このフィルターを独自に調査し、これを証拠として提出し、純正フィルターについての説明書きも提出しました。

 一審では、検察官の請求で、裁判所は検証実験を行いましたが、これは準備実験と本番の実験の他に検察官だけの事前実験が行われています。勿論、国費によるものです。実験の内容は、約6ヶ月の時間をかけて、検察側実験とそれを弾劾する弁護側の実験が行われ、その結果は、詳細な記録と3本のビデオテープの録画になっています。実験と記録のための経費は、推定では軽く100万円は越えますし、警察の写真班や裁判所職員を休日に呼び出すなど人件費も考慮すると相当の額になります。勿論その結果は、弁護側の予想どおりになり、無罪判決の重要な証拠になっています。しかし、控訴趣意書では、検察官はこの検察官自身が請求して行った実験結果に「信用性がない」旨を述べています。こんな馬鹿なことが許されるのでしょうか。

2.血友病エイズ事件

 検察の失当について、正面から物言う気概のある新聞記者はいません。「新聞、テレビ、雑誌にはそれぞれのタブーがある。新聞は徹底的にタテマエジャーナリズムで、たとえば検察がクロとにらんだ人物、鈴木宗男や辻本清美、古くは田中角栄や藤波孝生の訴えや彼らなりの立場表明に耳を貸そうとはしない。」(別冊 追悼!噂の真相 54頁 田原総一朗氏)ことを、本ブログ「大野病院事件」初公判に向けてのエール 「医療事故と検察批判 」―東京女子医大事件、血友病エイズ事件、両無罪判決より-http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/__100b.html に書きました。ここには、「血友病エイズでの帝京大安部英医師に対する刑事訴追は、冷静に考えればあまりに無茶であり、日本以外のどこの国もやらなかったことである。まったく同じ被害が世界中で生じたのであるが、何処の国でも臨床医の責任追及などという馬鹿げたことをしようとはしなかった。それにもかかわらず、日本では、敢えて世界情勢に目をつぶって、1人の医師をなぶりものにしたのである。」とうい

弘中惇一郎先生が上記「噂に真相」に投稿された文章を引用させていただきました。

3.大野病院事件

 また、私自身の言葉で綴った「『速報大野病院事件初公判』傍聴記」http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_ace1.html では、「検察官の証拠隠し」について、「12.弁護側の冒頭陳述―合法だが卑怯な証拠隠し」の章で書きました。この内容に対する医療界の反応はとても大きな物でした。ブログのコメントやパーソナルにもいろいろなお話をいただきました。

 「周産期医療の破壊をくい止める回のホームページ」http://plaza.umin.ac.jp/~perinate/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%C2%E8%B0%EC%B2%F3%B8%F8%C8%BD%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6%2807%2F1%2F26%29 佐藤章先生の 「第一回公判について」の、「7.弁護側冒頭陳述」の内容は、私のブログでしか知り得ない事柄が書かれています。この中で、「証拠調べ請求に対する検察官の不適当な対応」とう極めて理性的な文言で書かれていることは、私の言葉では、「合法だが卑怯な証拠隠し」のことです。佐藤章先生の文章を読まれた小松秀樹先生が、著書「医療の限界」でこの「検察官の証拠隠し」について触れられている他、検察官こそ隠蔽体質があることを指摘されています。

第2 人権派の弁護士の書いた「証拠を隠す検察官」

 私のブログには、高校の同級生をはじめとして、何人かの弁護士さんの話しが出てきますが、「大野病院事件の傍聴メモができたのも「先生」のおかげ」http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed65.html では、朝日新聞の「反権力の精神 息子らに」 ニッポン人脈記 弁護士の魂⑦ を引用させていただきました。この中では、自由人権協会の代表理事としての弘中惇一郎先生や、最高裁大法廷での二つの勝訴を勝ち取った同協会理事 喜田村洋一先生の話しが書かれています。(ちなみに私の同級生も理事です)

 この自由人権協会が創立60周年の記念として、

「市民的自由の広がり」 JCLU人権と60年 社団法人 自由人権協会編

を出版したことは、11月13日のブロクで紹介しました。

 この中に、「検察官の証拠隠し」について、坂井眞先生が書かれている文章があります。医療関係者としては、小松秀樹先生の「医療の限界」の「検察官の証拠隠し」と伴に一読することを薦めます。以下、第10章の一部を引用させていただきますが、この部分以外にも読むべき内容が満載されていますので、是非購入してください。

第2部           現代社会における多様な声

第10章 市民の生活と被疑者・被告人の権利・・・坂井眞

3証拠を隠す検察官

 非加熱濃縮製剤によるHIV感染事件(いわゆる薬害エイズ事件)をご存じだと思う。その被告人であった安部医師の弁護団の一員として経験した事実に触れてみたい。この事件で、検察官はこれから述べるような「証拠隠し」を平然と行ったのである。

この事件はメディアが客観的な事実を無視して騒ぎたてたが、東京地方裁判所の第一審判決で無罪の判断が下され、検察官控訴により東京高等裁判所で審理中、被告人が死亡したため裁判が終了した。事件の内容に細かく触れるのは本稿の趣旨ではないが、検察官の行為の不当性を理解するのに必要な範囲で簡単にまとめる。

 安部医師は、19856月に帝京大学病院の研修医が非加熱濃縮製剤を投与した行為について、業務上過失致死罪で1996年に起訴された。ちなみに安部医師自身はこの患者に非加熱製剤を投与してしたいない。

 問題の核心は・この当時までにエイズ原因ウィルスについて科学的にどの程度の事実が明らかになっていたのか、そして、その知見を前提として、この当時の日本での血友病治療法の水準がどのようなものであったかである。

 原因ウィルスに関する知見の点は、科学的知見の到達点の問題なのまで、世界中の過去の論文や学会での講演、議論の記録を調べれば客観的に明白にできる。

 そのようにして法廷で明らかになったのは、エイズの原因ウィルスが現在のHIVであるとの認識が科学的知見となったのが早くとも19854月以降であり、エイズの感染率、発症率、死亡率などについての知見が確定したのはさらに後になってからのことであった事実、そして、日本の血友病専門医は1985年の8月に加熱製剤が販売されるまで非加熱濃縮製剤を血友病の治療に用いてしたという事実であった。

 従って、19856月当時日本及び世界の血友病治療の水準であった非加熱濃縮製剤を使用した医師の中で、ひとり安部医師のみが刑事責任を問われることは論理的におかしい。一審判決も同様の論旨で無罪判決を下した。

 ところで・検察官は・この事件の主要な争点の一つである科学的知見にかかわる立証として、エイズ原因ウィルスの確定にかかわった研究者であるフランスのシヌシ博士・アメリカのギャロ博士の嘱託尋問調書を入手しておきながら、その内容が自己にとって不利なものであったため、これを隠蔽しようとした。(下線はブログ主)

 シヌシ博士は、エイズ原因ウィルスを確定したモンタニエ博士の共同研究者である。彼女は、血液製剤によるエイズ感染に関して行政の不作為を問題として起訴された本件当時の厚生省生物製剤課長であった松村明仁氏の刑事裁判に証人として出廷した一の法廷で彼女は「それ以前にフランスで「日本人の法律家たちのいらっしゃるところで、フランスの裁判官より面接を受けたことがあります。その面接というのは、安部教授の件に関係したものであったと私は記憶しております」と証言をした。それは、検察官がフランスまでシヌシ博士の話を聞きにいったことを意味するから、彼の知で嘱託尋問調書を作成していないはずはない。しかし、その調書は、安部医師の法廷にも、松村氏の法廷にも提出されていなかったこれらの事実は、検察官の手許にある調書の内容が検察官にとって不利なものであるということを意味する。そこで安部医師の弁護団は、裁判所に証拠開示の申し立てをしたところ、やはり検察官の手許にはシヌシ博士の嘱託尋問調書があり、その内容は、予想どおり安部医師に有利なもので、「1984年秋当時安部医師にはエイズ発症とそれによる死亡について予見するに足るエイズ原因ウイルスに関する知識は無かったと思う」という趣旨のものだった。弁護団は、検察官がそのような活動をしていたならば、モンタニエ博士と同じくエイズ原因ウィルスの確定者であるギャロ博士の嘱託尋問調書もあるはずだと考え、証拠開示を申し立てた。結果はシヌシ博士と同様で、予想通り調書はあり、その内容は、安部医師の責任を否定するものだった。

 このように、検察官は、公正な立場で真実を追求することが義務であるにもかかわらず、多額の国費を使ってフランスとアメリカまで行き、エイズ原因ウィルスを確定した研究チームのメンバーの嘱託尋問調書を取り付けておきながら'それが自らの主張に不利な内容であったため、これを隠蔽しようとした。

 検察官のこの事件でも立証活動の姿勢は、公益の代表者であるはずの検察官が、真実を追究するのではなく、被告人に有利な証拠を隠してでも有罪判決を得ようとする場合があることをよく表している。検察官は、刑事裁判の一方当事者であると同時に、公益の代表者として国費を使って真実を追求すべき立場にもある。そのような観点からは、被告人側に有利な証拠の検察官による隠蔽行為は許されるものではない。ちなみに、冒頭で触れた日弁連のオーストラリア調査の際入手した検察局の年次報告には、検察官の役割について「裁判所が真実に到達することを補助すること、及び法律と公正の理論に従って、社会と被疑者と正義が行われるようにすることである」、「正義が公正な方法で行われるようにするべきで、有罪評決をとることが役割ではない」とされていた。

 しかし、日本の現実は、検察官がその当事者的立場にのみ拘り、起訴した事件は99%超が有罪となるという状況の下で、公益の代表者にあるまじき振る舞いをすることがあるということである。そのような現実を見据えたとき、無罪推定の原則、被疑者・被告人の権利の保障を実質化していくことの重要性が理解されるはずである。

 そして、上記のような実例を見れば、公益の代表者として国費をもって収集した検察官手持ち証拠の全面的開示の必要性は明らかであるというべきであろう。

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2007年7月 7日 (土)

刑事事件 第二回 控訴審

2007年7月4日 午後13時30分から16時30分頃まで

東京高等裁判所 803号法廷で 刑事事件第二回 控訴審が開かれました。

出廷した公判担当検事は、一人でした。

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2007年2月 1日 (木)

大野病院事件の傍聴メモができたのも「先生」のおかげ      カウントダウン7

1.   弁護団を助けたい

 ブログのサブタイトルをはじめとして、検察をこれだけ批判してきた私のブログにモトケンさんからエールをいただきました。1月30日のブログのコメントからの抜粋です。

 「審理が始まった以上、ターゲットにすべきは検察官ではなく裁判官です。
 そして裁判官を説得すべき、そして説得できる立場にあるのは弁護団です。
 となると支援の対象とすべきは弁護団ということになります。」

2.   名実ともに・・・

 今日の朝日新聞 夕刊一面より

反権力の精神 息子らに

ニッポン人脈記 弁護士の魂⑦ 

 

 「権力にあらがう人々の弁護に生涯をかけた森川金寿が昨年10月、93歳で逝った。・・・・

 森川が人権活動にのめり込むのは、戦後47年に自由人権協会の初代事務局長になったことが大きい。60年後の今、代表理事の1人が弘中惇一郎(61)。ロス疑惑の被告を弁護し、保険金殺人を無罪に。薬害エイズでも元帝京大副学長に一審無罪をもたらした。

 これらの事件で弘中の右腕になった喜田村洋一(56)89年、最高裁大法廷に法廷メモの自由を認めさせ(所謂レペタ裁判 注 佐藤)、05年にも「在外選挙権の制限は違憲」の判決をださせた。自由人権協会では理事。

 その喜田村の好きなクイズ。

「憲法に一つだけ書かれた民間の職業はなんだ?」。答えは「弁護士」。刑罰などの国家権力の行使から、ときには世論の風向きと対立しても、個人を守る。それを憲法が認めているのは市民全体の自由のためだと喜田村は思う。」

3.   伴に闘う

 リヴァイアサンは、医師一人を口からはいた炎で消し去ることなど朝飯前である。個人が権力と闘うためには弁護士さんが絶対必要である。実感している。

 刑事事件も民事事件も一緒に闘わせていただいている。

 前々回のブログで「私の弁護団は二人だが、不足していると感じたことはない。」と書いた。一人は青春期に机を並べて学んだ仲だ。一人はこの記事でわかるだろう。私にとっては最強のコンビだ。

カウントダウン7

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2006年10月31日 (火)

「控訴趣意書に対する答弁書提出」と「S医師保険医登録抹消」-ひとり考える

1.控訴趣意書に対する答弁書提出

 このブログの更新が緩慢になっていた最大の理由は、控訴審の準備のためです。欧米では認められない刑事事件における検察官の控訴が日本では当たり前のようになされます。

 控訴は一審判決に対する意義を申し立てるシステムですから、基本的には東京地方裁判所刑事第15部の裁判官に対して文句をいっている訳です。文句の内容が「控訴趣意書」。

 これに対して、被告人、刑事ですから勿論弁護人が、これに対して「答弁書」を提出しますが、この締め切りが10月31日で無事提出していただきました。

 内容についてはこのブログで発表したいところですが、そこは慎重に行きたいと思います。

2.保険医登録取り消しへ 東京女子医大・心臓手術ミス医師

 このブログを閲覧する方なら、多くの方がご存じだと思いますが、10月29日に突然「S元講師の保険医登録取り消し」が報道されました。何故か、医療情報ならどんな些末なことまでも扱われる m3.comにはこの報道に関するスレッドがありませんが、共同通信もしっかりと各社には配信しています。「登録の取り消し後は原則5年間、健康保険の請求ができなくなる。」

3.公判でS夫人から謝罪されたこと

 私のブログでは、「公開質問状」をはじめとして、「東京女子医大幹部不正事件」では、東間 紘元病院長、黒澤博身心臓血管外科教授、笠貫 宏元心研所長の悪行を指摘してきました。しかし、所謂「女子医大事件」では、最も憎んでいるのはS元講師でした。

 S元講師の奥さんが50回あった公判で一回だけ、傍聴にいらしたことがありました。「佐藤先生には大変ご迷惑をおかけしました。お詫びいたします。」と大変腰の低い態度で、真摯な様子でした。傍聴は一回だけなので、目的は謝罪だったのかもしれません。

 勿論、事件そのものの謝罪に、裁判においても虚偽をいい続けていること関する謝罪が含まれるのかは聞きませんでしたが、この謝罪により憎しみが緩和されました。勿論私とS講師は、裁判中は話をしてはいけないことになっているので、直接の謝罪は今もありません。

4.嘆願書で1年6か月から一転5年

2004年4月

有罪-懲役1年執行猶予3年

 遺族からは、「S被告が医師を続けるのなら、明香のためにも多くの幼い命を救ってほしい。」とのコメント(毎日新聞より)

 有罪判決直後に、これだけの慈悲の言葉はなかなか言えないのではないでしょうか。私は同遺族から声をかけられたことがあります。亡くなった患者さんをお参りしたとき。「佐藤先生も子供のころに手術を受けて苦しい思いをしたことがあるのなら、明香のためにもこれからも頑張って子供達を助けてください。」旨呼びとめられて自発的に発言されました。当時私は、「調査報告書」で犯人扱いされていましたから、彼女も当然そう考えていたでしょう。本当なら嫌みの一つもいってもおかしくない場面だったので、非常に立派で、気丈な方だと思いました。

2005年2月

医道審議会後に厚生労働省行政処分発表-医業停止1年6か月

「医業停止1年6か月は、処分が甘いとの声もあったが、遺族から嘆願書も提出され短期となった。」旨報道の掲載があった。

 公判中に、別の遺族から「S(元講師)さんには謝罪してもらったが、佐藤さんには謝罪してもらっていない。謝罪してもらえば、有罪になって医道審議会にかけられても嘆願書を出させてもらうつもりだが、謝罪してもらっていないので、嘆願書はだせません。謝罪してもらって一緒にI(教授)を告発してほしい」旨連絡されたことがありました。医学的知識がなく、その内容の真偽について調べるこなく「調査報告書」を信じたりS元講師の虚偽の信じたとしたら、私が業務上過失致死の犯人で、I教授が隠蔽を指示したと考えても無理はないでしょう。私についても、I教授についても誤った認識をもたれているので、私は、謝罪しませんでした。

 しかし、嘆願書が出ていたということが真実なら、S元講師との約束を守ったということでしょう。

2006年11月中旬予定

東京社会保険事務局東京地方社会保険医療協議会諮問。答申を受けて保険医登録抹消正式決定―5年間

 S講師。勿論許さない、許されない。憎んでも憎みきれない。しかし。現在の彼を読者はご存じだろうか。何があったかは、私は間接的に聞いた。その中で、「医業停止1年6か月」は短期で唯一の救いだったかもしれない。

(2006年10月29日

共同通信配信記事より)

 明香さんの両親はそれとは別に、病院と医師らに対する医療保険上の監査と処分を求めていた。「保険医の登録が取り消されれば、カルテ改ざんを抑止する重要なきっかけになると思う。病院全体で改ざんを防ぐ何らかの手だてにつながればうれしい」

コメントできない。

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2006年9月 5日 (火)

ホリエモンと同じ気持ちの「初公判」

1.晴れの場―晴れの舞台

「堀江前社長は、初公判について、国民の前で意見を言える「晴れの場」と受け止めていたという。」(Asahi.comより)

 分かるな-この気持ち。全く同じ気持ちだった。ぴったりだ。「国民、裁判官、傍聴者の前で初めて意見を言える『晴れの舞台』だ。」と思っていた。「初めて味方になるべき人(裁判官)に会えた。」とも思った。

「われわれが不幸または自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性は全く癒すことはできない。理性もほとんどできない。時間がなにより癒 してくれる。これにひきかえ、固い決意の活動は一切を癒すことができる。」(「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第二巻第十一章から)「批判に対しては、身を守ること も抵抗することもできない。それをものともせずに行動しなければならない。そうすれば批判もやむなくだんだんにそれを認めるようになる。」他のスレッドにも引用したゲーテの言葉は、この気持ちのバックボーンとなる。

 私は商法を全く知らないし、ライブドア事件の事実関係も知らない。(基本的に報道が真実だと思っていないから。)だから、ホリエモンが無罪だとも有罪だとも言えない。しかし、この初公判でのコメントには共感できる。

1-1無罪主張の第一歩

 私の調書には、過失に関する記載が一切ない。逮捕前にも6ヶ月間十数回、逮捕後も20日間以上連続で朝から晩まで、警察官と検察官からの尋問には答えてきたが、自分の過失に関する評価については、話はしなかったし、調書も作らせなかったし、当然署名もしなかった。恐らくホリエモンもその点は同じだったであろう。

1-2舞台は「B会場」

 私の初公判は、保釈前で東京拘置所から他の被告人数十人と共に、銀色に光る手錠(警察庁は黒)を付けたまま、腰縄姿で裁判所に護送されてきた。法廷に入った。家族も傍聴しているところで、そのような姿で法廷入りさせる裁判所の配慮のなさについても頭にきたが、(後の弁護士さんが抗議してそのようなことがないよう約束されたが、次の公判前に保釈された。)この場はむしろ「待ってました。」という場だ。

 私の初公判があった隣の法廷では、リクルートの江副さんの判決が言い渡されたそうだ。弁護士さんからは、それと同等の大きさの法廷で、「広い法廷で天井も高いので驚かないように。」と言われていた。しかし、むしろ狭いくらいだと思った。「逮捕直前にトロントで口演したB会場程度の広さなので、慣れた大きさの器だし、ここにいる人達はみんな日本語が通じる。」と思えば気は楽だった。

2.Tシャツを脱ぎ捨てて

「精悍(せいかん)さを取り戻した主役は、意外にもネクタイ姿で法廷に登場した。かつての急成長IT企業のシンボルだったTシャツを脱ぎ捨てたのは、どんな決意からか。」

 これも私にはわかる。初公判に備えて、肉体や風貌も服装も小綺麗にしようと思った。

 後で知ったが、逮捕されたときは、寝起きでTシャツのまま官舎を出たところをNHKに撮影報道された。それ以来、留置場内でも、拘置所内でもずっとTシャツ、ランニング、ジャージやパジャマで生活してきた。髪の毛も伸び放題、ヒゲは週2-3回剃る程度。

2-1肉体鍛錬

 初公判は舞台だ。私は、初舞台に向けて、肉体を鍛えるために独房の中で、運動をはじめた。午前中のストレッチの時間、午後の体操の時間や入浴前の時間を利用して、腕立て、腹筋、背筋を行った。直ぐに各連続100回できるようになった。留置所で俳優S君に教わったジャズダンスのステップやイラン人に教わった「ナセル式腹筋」も取り入れた。(参照 http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/cat4382001/index.html )オリンパス製監視カメラが、天井から24時間私を捕らえていたが、知ったことじゃない。食事は、留置所に比べたら充実している。おかずはどれもてんこ盛り。最初は本当に「ウジ」が乗っていると思った麦飯は残しても、蛋白質と野菜類は全部食べた。逮捕時より9kg体重が落ちたが、筋肉の形が認識できるようになった。医者になってから、時間どおりに3食とり、徹夜しない日々が3ヶ月も続くということは夢にも見なかった。

2-2散髪と髭剃り

 留置所での散髪は、警察官がバリカンで「丸刈り」にする程度であったが、留置所ではちゃんと理髪師がいて、「調髪」してくれる。勿論、拘置所の職員がバッチリついたまま「調髪用のいす」にすわるが、凶器となる「はさみ」は使用しない。髪の毛を一部上に持ち上げ、毛先をバリカンで一気に切る方法で、調髪は10分で終了した。初公判の前の週に調髪してもらった。

 入浴は、留置所では、5日に一回、8人いっぺんなので、入れ墨品評会をしながら芋洗いの様相である。拘置所で、独房に入っていた私は、鈴木宗男議員やオウムの新実被告と同じ1人用の風呂に週3回入っていた。1人15分。運良くその日最後の入浴者になると30分近く入れる。公判前日は、必ず入浴することになっている。初公判前日。入所当時は怒鳴りまくっていた110kgはあると思われる刑務官「琴光喜」は、不整脈の相談にのってあげた後から時間をサービスしてくれて、この日は40分近く入れた。

 電動カミソリで鏡を見ながら入念にヒゲを剃った。拘置所の備品はどれも古いが、鏡は50年、爪切りにいたっては80年もののビンテージで、「田中角栄もあの顔をここに映したのだろうか。」などとつい考える。

2-3スーツ

 ホリエモンは保釈後なので、ネクタイをして法廷に入ったらしい。拘置所には、凶器や自殺の道具になりやすいネクタイは入らない。ダークグレーのスーツと真っ白のワイシャツを差し入れるよう妻に頼んだ。ハンガーはつるす部分がゴムひもになっているものなら購入できたので、先に買っておいた。3日前には、スーツが独房に入った。

2-4サンダル

 私の独房生活の支えのひとつになっていた、スティーブン・キング原作の「ショーシャンクの空に」の主人公。「無実の妻殺し」で服役していた銀行家アンディが脱獄する日は「人は、足元には意外に気がつかない。」という盲点をつくシーンがある。しかし、スーツにネクタイなし。その上にサンダルではやはり格好悪い。おまけに付けているアクセサリーは銀色の手錠と腰縄。   独房で読んでいたノーベル経済学賞受賞のアマルティア・セン著「自由と開発経済」の中で、アダム・スミスの「国富論」で、どんな貧困の労働者でも人前に革靴ででられるような生活云々と紹介されていたが、このお国では、被告人として勾留されると靴を履くこともゆるされない。品のない茶色のサンダル。これが歩行する唯一の履き物である。

2-5相被告人S講師

 初公判当日。娑婆では見たこともないメーカーのヘアークリームを購入することとなり、髪を整えた。拘置所で許される限り、精悍な自分を作ったつもりである。護送車内で、スーツを着ている人は私以外にいなかった。どくろマーク入りのTシャツやミッキーマウスが描いてあるスエットの人の方がむしろ違和感がない車内。裁判所内の独房で出番を待つ。昼食が出たが当然全皿完食した。裁判所の職員か法務省関係の職員か知らないが、「出番」を伝えにやってきた。「あー。女子医大の事件か。もう示談が済んでいると聞いていたけど、告訴を取り下げなかったのかね。まだ、お金でも欲しんかね。」とおしゃべりな職員がリラックスさせてくれる。法廷隣の待合い室でも1人隔離されていた。

 法廷の被告人席の隣を見て驚いた。初老を思わせる真っ白な髪のS講師が自信なさげに肩をすぼめていた。よれよれのシャツとチノパンがみすぼらしさ強調している。手術室では、「背負い投げ3連発」「きょうじん」「ほえている」等と呼ばれていた力強さは微塵も感じられない。私は彼を憎んでいるが、気の毒なくらいの外見でくたびれている。罪状認否でも謝罪した。(後に無罪主張に転じるが、ブログ「あかの他人の犯罪の証拠隠滅などありえない」http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/cat3889615/index.html 7月21日参照)

2-6やっと会えた裁判官

 ホリエモンもやっと「晴れの場」に立てたことを実感していた以外にも、「やっと自分の味方になるべき人が前にいる。」と思ったのではないだろうか。裁判長は、真面目に私の罪状認否を聞いてくれた。法衣は黒い。何色にも染めることはできない。だったら勝てると思った。

 無罪を確信しているなら「晴れの場」は、待ちこがれていた場のはずである。

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2006年8月15日 (火)

 「大野病院事件」初公判に向けてのエール 「医療事故と検察批判 」―東京女子医大事件、血友病エイズ事件、両無罪判決より-

「弁論要旨」および「追悼!噂の真相 (休刊記念別冊)」弘中惇一朗弁護士の投稿より。 ・検察官は、自然科学ないし医学の基本的知識なしに医師を起訴し有罪にしようとしている。

この国では、「被害者」という言葉が、特に最近は、非理性的に強くて、「被害者」という言葉をふりかざしたとたんに、国家権力に対してもさっと道を開いてしまう危うさがある。権力との対峙は、どこまでも理性的でなければならないのであるが、権力が暴走しないために作ったせっかくの枠組みを、「被害者」というエモーショナルなもので、ぐちゃぐちゃにしてしまう実情がある。

・検察権力というのはそんなに生やさしいもではない。そのような「被害者」を飲み込みながら肥大し続けるものであるし、現にそのとおりであった。「被害者救済」「正義の実現」などという耳触りのよい言葉に騙されてはならない。

 刑事訴追されるということは、個人にとっては、身柄を拘束され、名誉や社会的地位を剥奪され、時には殺される(死刑にされる)ということを意味するのである。人権侵害の最たるものである。憲法が多くの条文を割いて、国家権力に対して被疑者・被告人の権利を保障しているのも、権力というものは、何重にもの縛りをかけておかないと、何をしでかすか分かったものではないという歴史的事実に由来している。

以上本文より。

1.           はじめに

1-1医療事故の原因解明を医療界に

 私の無罪判決後の記者会見で最も時間を使い強調したことは、欧米との比較論も含めて、医療事故が発生した際の事故原因の解明を警察や検察が行うことの不合理さ。第3者である専門家による調査の必要性。それを科学的根拠もなしに真実を正面から見ることもなく医師個人の責任としたこと。(7月13日ブログ 「新聞各社の無罪報道比較」参照。)

1-2東京女子医大の警察検察への後押し

 私の事件の場合はそれを積極的に後押ししたのが、所属していた東京女子医大幹部であったことから、理由のない批判を私個人が浴びることになり、事件をさらに複雑化させたと思います。

女子医大の「内部報告書」を心臓外科医が読めば「この記事を見て、(心臓外科医の)N医師は、『誰か新米の記者が、勘違いして書いたな』と面白がっていた。人工心肺装置のポンプの回転数を上げすぎて血液が循環しなくなり、現場がパニック状態になったと書いてあるが、そんなことは逆立ちしても起こりえないと思ったのだ。」[2003年7月18日発行(もちろん判決前)鈴木敦秋「大学病院に、メス! 密着1000日 医療事故報道の現場から」より〕という感想も持つのが通常です。

1-3大野病院の場合は

 私とは反対に事件発生直後から多数の医師の応援を得ている大野病院産婦人科医の逮捕、起訴を契機に、「医療事故原因解明を警察、検察が行うこと」「医療事故(医療過誤)を刑事事件とすること」     は、欧米の制度に比較しても問題があることが議論されることが医療界では多くなりました。医療界にとっては当然のことですが、これを警察、検察の立場になって考えてみる必要があると思います。

1-4島(縄張り)争い

医療事故で医師を逮捕するのは、形式上は当該病院のある地区の管轄警察署です。私の場合も逮捕した書類上の警察官(司法警察員)は牛込警察署所属となっていました。今回の大野病院もおそらく逮捕した警察官は、担当の福島県警何々署某となっているはずです。

 しかし、実際に指揮をとり、逮捕に踏み切ったのは、警視庁捜査第1課で「業務上過失致死(障害)」を専門に扱う部署です(少なくとも2002年当時)。私の担当警部補が、別の医療事故で「有罪となった医師達と今では酒を酌み交わす仲だ。」等と話していたことを仮に信じないとしても、「業過」を専門としている部署と組織が警視庁にあることは間違えないでしょう。

 警視庁も役所です。しかも、巨大で、余剰するほど人員もいるでしょう。複数の人間が自分の業として仕事に従事し、官僚的組織の一つを形成していた部署を、そんなに簡単に捨てるとは思えません。簡単にいうと「自分の島」を医療界に奪われるようなことを良しとする訳がありません。検察も基本的には同じでしょう。(警察と比較して圧倒的に数が少ないので、本音をいえば、専門的で何回な医療関係の担当が回ってくる若手検事にとっては、できれば辞めたい仕事かもしれませんが。)

1-5戦略

 会社でも医学界でも政界でも内部の派閥争は程度の差はあれ熾烈な場面もあるでしょう。ましてや他の分野間の縄張り争いともなれば、闘いに対する幹のある戦略が必要なのは言うまでもないことでしょう。医療界がお題目を唱えるがごとく、言霊を信じて「医療事故の原因解明を医療界に!」とブログで叫んだり、記者会見したりしても、警察検察は屁とも思わない。従来のごとく厚生労働省をつついても話が簡単に進むとも思いません。

 圧倒的な指導者(達)が必要だと思います。その前提として、医療界としての足並みがそろっていることも必要でしょう。医療界の為に目前の利益がなくとも政治的に動きをとれるような人。以前の武見太郎さんのような人物にそれを求めるのか?現在も真面目で実力のある医師である国会議員もいると思いますが、今のところ私には答えのきっかけも見つかっていません。

 少なくとも、「医療事故(医療過誤)を刑事事件とすること」が、医療不信を招き、若手医師の意欲を削ぎ、医療レベルを低下させ、この国にとって利益をもたらさないことを国民に把握してもらう時は、今です。

2.           女子医大事件から

2-1最終弁論

 私の担当弁護士さんの1人は名前を出せば、法曹界で知らない人はいません。いたら「潜り」でしょう。私の従兄弟はある大学の経済学の助教授をやっていますが、畑違いでも知っていました。

 弁護士さんの書かれた文章を読むと、自分で文章を書くのがイヤになります。その構成力の素晴らしさとともに、難解な用語や言い回しを使うことなく平坦な日本語を読ませてくれます。最終弁論は、実際には事前に書かれた「弁論要旨」を一部は朗読され、一部は説明にとどめられました。朗読もまた透き通るような美声と流れるような調子で聞かせるものでした。

 今回のブログのテーマである、医療事故の解明の姿勢と検察批判が含まれている弁論要旨「第1章 序」を紹介させていただきます。なお、事件に関連した私以外の個人名につきましては私、佐藤が修正を加えました。以前のブログと重なりがありますが、流れも大切なので、再掲載となります。人のなんとかで相撲をとることになりますが、自分より優れた方々の文章を見つけて紹介することは、なんら恥じることはないと思っています。

2-2弁論要旨 「第1 序」 より

第1 序

 1 判決にあたっての要望

   本件は、医師がその業務として行った手術が、刑法の業務上過失致死に当たるかが争われている事件である。

 約3年にわたる審理を終えるにあたり、被告人・弁護人は、裁判所に対し、2つの点、すなわち、判決にあたっては、 

・ 事案の真相を明らかにするべきこと

   ・ 医学水準に立脚した認定を行うべきこと

  を特に要望しておきたい。

 この2つはあまりにも当然のことであるが、たとえば検察官の論告においては、脱血不良ないし脱血不能が、具体的に、いつどのような機序で生じたのかが全く記載されていないし、佐藤の、どの時点のどのような行為によって、どのような結果(脱血不良ないし死亡など)が生じたのかが全くわからない。

 われわれは、第2以下において、この問題に正面から向かい合って、われわれとしての事実認定と主張を行っている。

 裁判所が判決にあたり、上記の2点に留意されることを確信しているが、なお、われわれの立場を明らかにするため、敢えて弁論の冒頭に当たり、この点を要望しておくものである。

2 本事件の特質

(1)AでなければBBでなければA

本件は、手術室の中で生じた事故であり、これが犯罪になるかが問われている。

    ところで、手術室の中は、術野と人工心肺側の2つの部門に分かれ、後者はさらに人工心肺担当医と技士に別れる

    本件ではそもそも刑事事件となるか、すなわち術野と人工心肺側のいずれかに過失が存するかどうかが問題となる。「患者が死亡したから、誰かが責任を取らなければいけない」という論理は成り立たない。

    しかし、強制捜査が行われ、起訴までされたということになると、「誰にも責任はない(かもしれない)」という懐疑は存在を許されず、「誰かが悪いはずだ」「悪いのは誰だ?」という糾問が始まる。

    そして、手術室という限られた場所での出来事であれば、「犯人」になりうる人は限られる。術野か人工心肺側かのいずれかである(本件では、麻酔医と看護婦は除外される)。

そうすると、「人工心肺側に責任があれば術野には責任がなく、逆に人工心肺側に責任がなければ術野に責任がある」とか、「仮に人工心肺側に責任があるとしても、担当医に責任があれば技士に責任はなく、技士に責任があれば担当医に責任はない」といった思い込みが蔓延することになる。

    したがって、術野の医師の証言の信用性を判断するにあたっては、人工心肺側に責任があるとされれば自らの責任を免れるという観点から証言が歪められていないかを検討する必要がある。技士についても同様である。

    このため、本件の事実認定にあたっては、基本的に、手術の過程で作成されていた原始記録に依拠すべきである。さらに、供述については、まず、看護婦のような利害関係を持たない医療関係者の供述を重視すべきである。これに次ぐのは、本来は麻酔医であるが、麻酔担当のI医師については麻酔医として十分に義務を果たしていたかについては疑問も残るので、その供述をそのまま真実と認めることはできない。

  術野側にいた医師については、上記のとおり、「人工心肺か術野か」という関係が存するから、被告人と同等の立場に置かれているものとして、その信用性を判断すべきである。したがって、個々の証言の真実性を考えるにあたっては、原始記録等の客観的記録、医学的常識との関係を常に念頭に置き、その上で、相互の供述の矛盾、本人の供述の変遷などがないかを検討したうえで、真偽を判断すべきである。

 (2)検察官の態度

 検察官は、自然科学ないし医学の基本的知識なしに医師を起訴し有罪にしようとしている。

 吸引ポンプの回転数を上げると陽圧化するという過失自体がそれに該当するが、それを措くとしても、明白な点として以下の点が指摘できる。

   ア 圧の不等式

冒頭陳述の段階では、「リザーバー内が陰圧であるためには、『血液流入圧+吸引流入圧<壁吸引による吸引圧+送血圧』という式が成り立つ必要があ〔る〕(7頁)と主張していた。

     しかし、圧とは単位面積当たりの力であるから、これを足したりすることはできない。このような数式らしきものを示すこと自体、物理学ないし人工心肺に無理解であることを示している(検察官の好きな比喩を使うのであれば、「この程度のことは高校生でもわかる」ことである)。(佐藤注:検察官はそれまでの証人調書で「吸引ポンプの回転数を上昇させると、静脈貯血槽内の圧力が陽圧化するということは、高校の物理の知識でもわかることである」旨のフレーズを散々使用してきた。)

   イ 量の不等式

上記のような圧の足し算が成立しないことを認識したためか(*)、検察官は、論告では、「圧」の代わりに「量」を持ち出し、「流入流量<流出流量なら静脈リザーバー内に陰圧が生じ、脱血を促進する」(論告20頁)と主張するようになった。「圧の不等式」はひっそりと捨てられたのである。

この「量の不等式」は、圧を捨てたという点においては半歩前進したとは言えるかもしれないが、やはり人工心肺についての根本的無理解を示している。医学博士工学博士のダブルライセンスを持つ元助手B証人が明言するとおり、液面に変化がないときは、両者の量は全く同一であるが、その場合でも陰圧が生じていて、脱血できるのである(B・22回・2-5)。(*―被告人であった佐藤が公判でレギュレータの特性や静脈リザーバー内の物理学を説明したことを受けていると思われる。高校までには習うニュートンの第2法則 運動方程式はF=madimension[kgm/s²]。質点における力の相互関係はF (force)で考察するから、圧力= P (pressure )で方程式や不等式が成り立つわけがないことは高校生でもわかる。)

ウ DCビート

 さらに、検察官は、起訴から3年を経た最終段階においても、手術について全く理解していない。論告で、DCビートの回数が多くなったとはいえO医師公判調書 第5回49頁等)、DCビートによって自己拍動に戻しており」(19頁)と述べているが、「DC」とは直流カルディオバーション、電気ショックである(論告10頁では、「DCショックをかけて心室細動状態から自己拍動状態に戻す作業を行った」と正しく記載している)。

それによって自己拍動に戻ったことを、人工心肺記録では「DC beat」と記載しているのである。しかるに、検察官は、「DCビート」という処置があると誤解して、「DCビートの回数」とか「DCビートによって自己拍動に戻〔す〕」などと書いているのであり、人工心肺記録を理解できていないことを示している(なお、術者O医師の該当箇所には「DCビートの回数」などといった言葉は出ていない。この箇所は、検察官の造語である)

   エ 小括

     このような医学ないし自然科学に対する理解が欠如したところで、本件公訴を提起し、追行する検察官の態度は遺憾である。

3.           血友病エイズ事件から

3-1故安部帝京大学教授はなぜ無罪

 安部 英帝京大学教授が二審で無罪判決を言い渡された後に、上告はされましたが亡くなりました。勿論無罪のまま。亡くなってしまったので、過去の事件とななりつつありますが、記憶している人も多いでしょう。

 安部さんは学者として一流でしたが、メディアに登場するとややエキセントリックな言動が多かったためか悪役にはもってこいのキャラクターを自分で演出してしまったようです。

 「医官民が一体となって利益をむさぼるために、エイズウイルスに感染すると分かっていた「非加熱製剤」許可した。」という疑いとともにアプローチするのが警察、検察です。そして被害者です。

 しかし、被害者にとっては確かに可哀想なことになってしまいましたが、安部さんに罪があるかどうかは全く別問題です。医学的な観点、科学的なアプローチとしては、「非加熱製剤を投与するとエイズウイルスが感染する」という事実がその当時の医学、科学レベルで解明されていたかどうかになります。

 裁判で証拠とされた文献は、複数の”Nature”や”Science”だったそうです。私は、この事件の調書や証拠原本を読んでいませんので何とも言えません。しかし、安部さんが最高裁においても間違えなく無罪になるであろうと予測されていたのは、このような一流の雑誌レベルで解明されていなかったことが証明されていたからでしょう。

3-2検察批判の書籍

 以前、私の蔵書には法律関係や司法界に関連する書籍は、ほとんどありませんでした。権力や憲法問題に関連したいくつかの本(特に「痛快!憲法学」小室直樹著は検察権力についても言及していて、特に面白かった)以外は、簡単は刑事訴訟法の解説をペラペラめくった程度。

逮捕されて接見禁止が解除された起訴後は、牛込警察留置所文庫の官本で常時貸し出しナンバー1、2を争っていた「アフター・スピード留置場拘置所裁判所」石丸元章著と「だから、あなたも生きぬいて」大平光代著から始まって法律関係や司法界についての書籍をamazonや霞ヶ関の弁護士会館の本屋などで購入して相当な量を読んできました。(弁護士会館は医療事故に関連した書籍が充実しています。関係者はいくべし。)

その中で、通常の社会生活を送っている人とは縁がほとんどない「検察」を批判する書籍は多数とは言えません。逆に、検察を批判するとなると、それなりの覚悟や見識が必要となるはずですから、書かれたものは比較的骨太のものが多い。

 「アメリカ人のみた日本の検察制度日米の比較考察」デイビッド・T. ジョンソン著、「特捜検察の闇」魚住 昭著、「日本 権力構造の謎」 カレル・ヴァン ウォルフレン著の一部、「歪んだ正義特捜検察の語られざる真相 宮本 雅史著、「検察の疲労」産経新聞特集部等は、立派な内容ですが、医療事故に関連したところでは少ないかもしれません。

3-2安部医師担当弁護士と追悼!噂の真相 (休刊記念別冊)

 検察権力の真の恐ろしさを実感しているのは、検察と常時闘っている人。それは、刑事事件を真剣に弁護している弁護士諸兄。日本に何人そういう方がいるか分かりませんが、多数派ではないようです。

 私の担当弁護士さんと同じ事務所に所属し、伴に安部さんの弁護をはじめとして、多数の大事件で活躍された弘中惇一郎先生の投稿を紹介します。医療事故における検察とメディアに対する批判はこの文章が一番実感のこもったものです。

 「噂の真相」は確かに品のよい雑誌ではなかった。しかし、「新聞、テレビ、雑誌にはそれぞれのタブーがある。新聞は徹底的にタテマエジャーナリズムで、たとえば検察がクロとにらんだ人物、鈴木宗男や辻本清美、古くは田中角栄や藤波孝生の訴えや彼らなりの立場表明に耳を貸そうとはしない。」(同別冊 54頁 田原総一朗氏より)のに対して、「噂の真相」誌は、検察に毅然とした態度で対峙したため、逆に刑事では珍しい「名誉毀損罪」で刑事追訴され懲役の有罪判決を受けている。

3-4 「孤軍奮闘編集長の深層心理」弘中惇一朗弁護士(検察や血友病エイズ事件に関係無い後半部分は省略)

 『噂の真相』は、国家権力、とりわけ警察・検察権力の本当の怖さを知っている本当に数少ないメディアの一つであった。この国では、「被害者」という言葉が、特に最近は、非理性的に強くて、「被害者」という言葉をふりかざしたとたんに、国家権力に対してもさっと道を開いてしまう危うさがある。

 権力との対峙は、どこまでも理性的でなければならないのであるが、権力が暴走しないために作ったせっかくの枠組みを、「被害者」というエモーショナルなもので、ぐちゃぐちゃにしてしまう実情がある。

 血友病エイズでの帝京大安部英医師に対する刑事訴追は、冷静に考えればあまりに無茶であり、日本以外のどこの国もやらなかったことである。まったく同じ被害が世界中で生じたのであるが、何処の国でも臨床医の責任追及などという馬鹿げたことをしようとはしなかった。それにもかかわらず、日本では、敢えて世界情勢に目をつぶって、1人の医師をなぶりものにしたのである。

 ところが、ほとんどのメディアは、「被害者」へ同情し同調するあまり、日本の検察官のこのような権力行使に対してきわめて寛容であった。

 私は、それまで、クロロキン薬害の被害者の権利回復のために弁護士生活のエネルギーの大半を費やしてきたのであるが、しかし、それでも、この安部英医師に対する刑事訴追を黙視することはできずに、弁護人となった。そのとたんに、クロロキン薬害の被害者は、私を解任した。同じ薬害「被害者」としての仁義というのがその理由のすべてであった。このことは、一つのニュースとして、当時の全国紙にも掲載されたが、私の行動に理解を示したメディアは『噂の真相』ただ一つであった。もっともそれは、読者投稿欄という場所に過ぎなかったが、それでも、そのような投書を拾い上げて掲載してくれたことは、私に大きな勇気を与えてくれた。

 安部英医師は、血友病患者の期待を裏切った(「大丈夫」と広言(ママ)したが、結果的に大丈夫ではなかった)ために、やりきれない気持ちを誰かにぶつけずにおれなかった「被害者」から告発の対象とされたのであるが、しかし、検察権力というのはそんなに生やさしいもではない。そのような「被害者」を飲み込みながら肥大し続けるものであるし、現にそのとおりであった。「被害者救済」「正義の実現」などという耳触りのよい言葉に騙されてはならない。

 刑事訴追されるということは、個人にとっては、身柄を拘束され、名誉や社会的地位を剥奪され、時には殺される(死刑にされる)ということを意味するのである。人権侵害の最たるものである。憲法が多くの条文を割いて、国家権力に対して被疑者・被告人の権利を保障しているのも、権力というものは、何重にもの縛りをかけておかないと、何をしでかすか分かったものではないという歴史的事実に由来している。

 『噂の真相』は安部英医師に対する刑事訴追について、検察に無邪気な拍手を送らなかった数少ないメディアであり、そのことにより、国家権力に対する良識と毅然とした態度を示した。

 しかし、それ故に、『噂の真相』は、検察の次のターゲットとされ、有名作家に対する何でもない悪口記事の掲載を理由として、刑法上の名誉毀損罪該当として、刑事訴追され、1審、2審と、懲役の有罪判決を受けた。

 私も、弁護団の一員として、無罪判決獲得に向けて努力をしてみたが、今のところ、思うような結果を出せずにいる。

 有名作家を批判した程度のことで、検察権力が動いて、編集長や記者を刑事訴追するということは、本当に恐ろしいことである。言論統制につながるという意味で、安部英医師に対する刑事訴追移住の危険があることは、ちょっと考えれば、誰でも分かることである。しかし、このことについても本気で批判しようとするメディアが存在しない。・・・」追悼!噂の真相 (休刊記念別冊)68頁~69頁.

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2006年8月12日 (土)

最終陳述

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 現在、控訴審の準備を開始しました。刑事事件に関連したファイルは、PC上は1000以上ですが、メールのやりとり等まで含めると3000以上になると思います。いろいろと読み直してみました。その中で久しぶりに「最終陳述」が出てきました。

 掲示裁判では、審理の終了後に、以下のような流れになっていました。

論告求刑  検事側  2006年7月11日

最終弁論  弁護側 2006年9月8日

判決     裁判所 2006年11月30日

 「論告要旨」は55頁、全く同じ字数の用紙を用いた最終弁論「弁論要旨」が目次、図、略語解説までいれると317頁でした。この作成には、2ヶ月をかけたわけですが、特に最後の3日間は弁護士達も私もほとんど完全徹夜(私は平均睡眠時間1時間程度)でした。これに、一生懸命になっていたので、「最終陳述」を書く仕事が最後になり、最終弁論の当日朝7時4分に完成となりました。30分程度で書いたものです。最終弁論は何回も読み直しましたが、「最終陳述」は一年ぶりに読みました。

通常被告人の最終陳述といえば罪を認めていれば、

「大変申し訳ありませんでした。」

とか、無罪を主張しているなら

「私はやっていません。・・・」といったように簡単なもののようですが、

私の場合は複雑なものがあり、以下のように述べました。

 この陳述の後、メディアの方々が集まってこの「最終陳述」がかかれた書類を欲しいとの要望がありました。最終「弁論要旨」はメディアにも公開していましたが、「最終陳述」はこの時点では、諸々の理由で、発表はしませんでした。法廷での「話言葉」として作成したものなので、主語をわざと抜いたり「文書」としてはしっかりしたものではありませんが、そのままを引用します。

最終陳述

2005年9月8日

佐藤一樹

 患者さんが亡くなったことは大変悲しいことです。

特に今回のように、事故後に必要な検査を行うことも、可能な範囲での最良の治療もさせてもらえなかったことには、怒りも感じます。

しかしながら、その感情だけで終わらせてはいけません。

事故でなくなった場合は、その原因を正しく調べて、解明、分析して遺族に伝えるとともに、今後このようなことが起きないようにすることが、医師の務めであります。不誠実な態度で、患者さんの死を無駄にしてはいけません。

特に医学研究機関である大学病院においては、組織として原因の調査、解明、分析をしなくてはなりません。

医学はライフサイエンスです。

臨床における反省は、科学的におこなうべきであり、専門家が行うべきです。

しかしながら、東京女子医大が行ったことは、大学病院側の責任を逃れるためだけの内部報告書の作成、特定機能病院取り下げを回避するための裏工作、この事件を顧みずにおこなった報道による病院宣伝でした。

警察官や検察官の行ったことは、科学的、医学的、物理学的、工学的な背景、知識、論理展開のないものです。

判決にあたりましては、この事故の真相が明らかになるようお願い申しあげます。

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2006年8月10日 (木)

闘いの再開

控訴趣意書

前回、「次回、書き込みは、全体像がある程度把握できるような、時間経過を追ったアウトラインを作成しようと思っています。」と書きましたが、7月末に、東京地方検察庁から、「控訴趣意書」が提出されました。簡単にいえば、無罪判決を出した東京地方裁判所に対して意見してきた訳です。

  一行33文字で24行56頁。内容も科学的医学的な背景は全くないというか、誤っていることだらけです。誤りのない科学的事実が証明されれば、こんな薄っぺらなものには絶対負けることはない。

控訴審に向けて

 とはいっても判定をするのは初めてこの事件に関係することになった、新しい裁判官。専門用語ひとつからご理解をいだたくところからはじめなくてはなりません。ひとつひとつ丁寧に積み上げていく地味な作業をやってくしかありません。

 ここに書き込むことで、新たに自分の意志を確認しようと思います。

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2006年7月24日 (月)

刑事事件の書き込み

 前回の書き込みが大作だったためか、閲覧数が増加して初めて2日間で1000を越えました。いままでも書き込むと500を越えることはありましたが、次の日は減少するので、2日間で900を越えることはありませんでした。

 今までで閲覧が多かったのは、保釈金のことを書いた時でした。刑事事件に関連した書き込みのほうが多くの方に読まれている気がします。「東京女子医大幹部不正事件」については、進行しだいまた書き込みしますが、 刑事事件に関しては山のようにテーマを持っていますので、今後は刑事関係の話を多くしようと思います。

「事件報道」「逮捕前の任意取り調べ」「取り調べにおける注意点」「民事くずれと遺族」「マスコミの張り込み」「警察の盗聴および盗メール」「逮捕劇とその報道」「任意同行と逮捕状」「警察と検察の手錠のかけ方の違い」「マスコミの集結」「腰縄」「取り調べ室」「警察調書と検察調書の違い」「留置場」「代用監獄」「牢屋と地震」「牢屋内の人間学」「牢屋内部屋長」「行政警察員と司法警察員」「指紋の登録と写真撮影」「接見禁止」「面会」「牢屋内の文房具と新聞」「留置場での診療」「右翼と俳優とジャズダンスの練習」「各国勾留者の獄中生活と佐藤医療相談室」「勾留者のフラッシュバック」「運動時間とは名ばかりの喫煙タイム」「5日に一回の入れ墨品評会」「臭い飯とは」「兵糧責め」「護送車と脳梗塞患者の発症と佐藤の診療」「お役所仕事の裁判官」「龍のネクタイの取り調べ検察官」「牛込留置所図書館」・・・・

と起訴される前だけでも書くことは山のようです。拘置所にいくとまた沢山テーマが出てきます。早めにこのことを知りたいというリクエストがありましたらコメントください。

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