獄中記

2006年11月 9日 (木)

監獄と食事と音楽

1.           忘れていた音楽鑑賞

 仕事を詰めてやっていると潤いや余裕のある生活ができなくなります。大きな仕事でも先が見えずにやっているときはそうでもないですが、締め切りが迫っている状況では、私はいつもそうなります。

 控訴趣意書に対する答弁書を提出するまでの3ヶ月間もそのような状態でした。現在、週のほとんどを自家用車で通勤していますが、行きはラジオ放送でニュースをチェック。帰りの運転中はCDを聞いています。おそらく3ヶ月間たった1枚のCDしか聞きませんでした。鑑賞するというよりただ聞き流していました。勿論、気に入っているCDということもありますが、運転中はいつも訴訟のことで頭がいっぱいだったのでよく知っている音が心の平静を保てたのかもしれません。

(ちなみにそのCDとはマレイ・ペライアの「ゴールドベルク変奏曲」。*)

2.           食べ物の恨み

 このブログやm3.com.のスレッドにも書きましたが、留置所(代用監獄)の食事は量も内容的にも栄養学的にも最低でした。拘置所は、美味とはいえないが、量も内容も栄養学的にも問題はありません(留置所から移管するとこれが美味しく感じる)。拘置所では、娑婆で調理関係の職業をしていた受刑者が自ら食べるものも含めて調理しているという噂。よくテレビ番組等でも紹介されるためか、法務省の検食があるためか知りませんが、ある程度愛情を感じる。できたてで暖かいからかもしれません。ただし、最初は本当に分厚い金属の弁当箱の中に「ウジ」が乗っていると間違うような麦がのかったご飯は量が多いこともあり、完食するのは大変でした。娑婆で健康食として食べる麦とはわけがちがうので、見た目は最低でした。

3.           牛込警察留置所 献立表

朝食:365日毎日同様(と行政警察員がいっていた)

ご飯-ほっかほか弁当と同じような白い容器に明らかに前日詰め込んだものを保温してカピカピしている。

菜-ご飯の上に毎日昆布と沢庵2-3切れ、のりたまふりかけが乗っている。昆布は鰹節のにおいがついた2cm四方の大きいものか、細く切って少量の胡麻があえてあるものが一日おきにでる。沢庵はいかにも合成着色料を使用してご飯が黄色染まっている。

みそ汁-唯一香りがする。出汁が結構でているが、みそは色が、やっとついている程度。具は月曜から土曜は2-3枚のちいさなわかめのみ。日曜は作っている場所が違うとのことで、これに麩が1-2個浮いている。毎日この程度の食事だとこれでも嬉しい。

白湯-留置所で飲めるものは、基本的に「水」と「白湯」だけである。勿論「お茶」すら飲めない。(5日に一回の入浴直後には、自弁(自分でお金を払って購入する)で、200mlのジュースを一本飲める。缶コーヒーを一回飲んだ。拘置所に移管が決定したときに、担当刑事との面会があって取り調べ室に呼ばれたときに、出された。私と術野のM医師とのメールを盗聴した警察。その内容を元に、M医師に「佐藤の弁護士に会わないように」と手術前の早朝に電話したA刑事は私の担当ではないのに缶コーヒーを購入して持ってきた。「これが、盗聴したことの詫びかよ。」と叩き返してやろうと一瞬思ったが、彼のようなうだつの上がらなそうな刑事は単なる連絡係で、指揮をとっているのは別の刑事であるはずなのでやめた。飲んだがうまくもなんともなかった。)

昼食:365日毎日同様(と行政警察員がいっていた)

パン:昭和40年代から50年代に小学校にいっていた人ならあの「大コッペパン」を思いだせるでしょう。あれそのものが毎日2個。月曜から日曜まで同じ。

ジャム:毎日マーガリン一個とジャムが小さいビニールパックで一つ。イチゴジャムとオレンジマーマレードの繰り返し。当然、朝昼は飽きる。拘置所に移管するときの法務省内では、はちみつとQBBチーズステイックがでた。)

白湯-朝昼夕ともに飲めるのは、「水」か「白湯」のみ。

自弁-実は昼は「自弁」で外注の弁当をとれます。ただし指定された業者からのみ。また、土曜日は特定の中華料理屋に注文できます。しかし、外注の弁当もまずくて質の悪い油だらけで最悪でした。同房に勾留されている人達も誰も頼んでいない上、私も食べると手掌に油が浮いてくるような感じになるので、やめました。理由のもう一つは、当然、無職になることが予想されたので、経済的不安からも600円の自弁も購入するのは贅沢に感じたことがあります。

夕食:二日連続同じものは出ないが・・

 酷かった。妻が面会に来た時に、偶然見たそうだが、「まさかこれを食べさせられているとは思わなかった。」という代物。おそらく、コンビニエンスストアに置いてあったら間違えなく売れ残って、アルバイトの店員がもったいないから持ち帰ったとしても、帰宅途中にいた野良犬に与えたとしても食べないだろう。

ご飯-白飯だが、カピカピ。

おかず(例)-油にまみれてしなしなになった小さなレタスの上にべとべとの油であげたかき揚げが冷めてのっている。ちいさなさくらエビが2-3入っているだけであとはほとんどたまねぎ。ちくわの揚げたものもさめている。うぐいすまめ5-6個。しば漬けが2-3ついているが歯ごたえがなくぐねぐねしている。以上。

私の父は新潟出身で、子供のころから「お百姓さんが一生懸命作ったお米は一粒残さず食べる。」のが常識となっていたので、出されたものは全て残さず食べました。(もちろん、この程度の食事では痩せる。)

4.           ござの食卓で聞けた唯一のCDimage

 起訴されるまでは、取り調べ時間も深夜におよぶので、精神的にも辛い上、こんな食事での扱いを受けると人権侵害といいたくなりますね。社民党の福島瑞穂議員が刑務所に処遇について本を書いていますが、社会民主党(私は嫌いですが)の党首としては、視線が明後日の方向ではないかと思います。人権侵害の最たるは、逮捕から代用監獄での起訴まででしょう。(このことは、本稿の主題ではないので、改めて書きます。)

 食事の時間になっても、鉄格子の外には出られません。朝夕の布団の上げ下げと体操という名の午前の喫煙タイム(吸わない人は他房者との会話タイム。)と午後一回ある官本を返る時。それ以外は、取り調べと面会と5日に一回の入浴以外は房の中。

 食事の合図とともに、す巻きになった「ござ」が、40x30cmぐらいの窓から入れられて、これを開いて食卓完成。胡座をかいて「えさ」にありつく。朝昼はいつも同じなので、一切期待はしない。夕飯は前日と同じメニューのことはないので、期待をするが、45日間の留置場勾留期間全てむなしい思いをしました。

 また留置所で音楽が聴けるのも食事の時間のみ。しかも、一枚のCDを繰り返し45日間聞いていた。

 「image」というオムニバス盤で、主に映画音楽や最近のクラッシックの曲をアレンジした曲が多い。よく売れたので聞いたことがある人も多いでしょう。「パリは燃えているか」「放課後の音楽室」「風笛」私の映画Best 3でもある「ニューシネマパラダイスのテーマ」等好きな曲が多いので今聞いてもここちよい。

 これを聞くと「ござ」の上で、マーガリンとジャムをどのような塗り方やミックスの仕方で食べると飽きずに食べられるかという馬鹿馬鹿しい工夫を、中国人の陸さんやイラン人のナセル(参照「獄中執筆記-傷害防止特殊ボールペンによる医学書院「医学大事典」の執筆-」http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/cat4382001/index.html)と情報交換したことを思い出す。

5.           勇気づけられた放送「人間どきゅめんと」とテーマ曲「黄昏のワルツ」

 この「image」を毎日聞いていて勇気づけられたのは「黄昏のワルツ」。最近Sergei NakariakovCDにも収録されましたが、加古隆のオリジナル盤は、NHK総合で放送していた「人間どきゅめんと」のテーマ曲になっていました。

 私は、普段ほとんとテレビを見ません。スポーツ中継で気にいったものがあればみる程度。1970年代から1980年代はボクシングが好きで、後楽園ホールでよく観戦、投稿していたボクシングマガジンの編集長ともその日の試合について感想を述べ合ったりしたこともありました。このところ気に入ったボクサーが全くいませんが、ここ10年で応援しようと思えるファイターが1人います。

坂本博之。彼のがこの「人間どきゅめんと」に出ていた。

6.           「親に捨てられた兄弟よりも今の自分は辛くないはず。」

 昭和30年代40年代のボクサーといえば、ファイティング原田や大場政夫のように貧困脱出から栄光へのサクセスストーリー。(大場はチャンプのまま23歳で交通事故死)長嶋と新春対談といったレベルのスター扱いだった。日本チャンピョンの座につけばその瞬間に一戸立てが建つ時代だったが今はアルバイトしないと生活できない。

 坂本は飽食の時代に生まれたけれど、親に捨てられた。飢えていた。タイガーマスクの漫画の世界を再現するような「みなしご」の施設に入る。彼が小学生の時に幼い弟が「飢え」てほしがった「肉まん」を店から盗んで食べさせたエピソードが「人間どきゅめんと」で流された。

 坂本の戦歴は下に記した**の通り。スタイリッシュ王者畑山に挑戦。日本人同士の対戦ではここ10年で最高と思われる劇的なカード。無骨だが鉈で一撃必殺タイプの坂本と現代的なアウトボクシングスタイルの畑山。

 坂本は、試合がある度に育った「孤児の施設」を訪れ、ファイトマネーを寄付し、子供達に学用品や玩具をプレゼントする。子供達は世界戦では二階席からそろって鉢巻きをして、両手を会わせ祈りながら泣きながら坂本を応援する。その中、リングに倒れた。

 以後椎間板ヘルニアで満足にトレーニングでなきかった坂本の復活戦までの闘病生活を描いた「人間どきゅめんと」坂本の入場テーマ曲は現代のボクサーとしては珍しいドボルザーク。復活戦で勝利する坂本の映像とともに流れた「黄昏のワルツ」は涙をさそった。

 彼の苦しみをこの曲と共に毎日思い出した。留置所のクサイ飯は確かにまずいが飢えはしない。彼のように必ず復活する日、自分の主張を言える日を待つこととした。その第一歩が初公判であることは、9月5日のブログ「ホリエモンと同じ気持ちの『初公判』」http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/cat3889615/index.htmlに書いた。

7.           「ショーシャンクの空に」「フィガロの結婚」

 留置所(代用監獄)にいると、特に起訴以前は精神的にそうとうつらい。映画に出てくるような銀行の金庫の銀色に光る分厚い扉に似ているドアから留置所内に入ると、地震が起きた時にここに閉じこめられたまま押し潰される夢を見る。弁護士さん以外は、家族も含めて面会は禁止。楽しみは、食事と5日に一回の風呂くらいしかない。娑婆での生活が恋しくなる。音楽が清涼剤にはなるが、代用監獄では「image」のみ。

 拘置所にいくと、ラジオ放送が聴けるようになる。各部屋に音量を調節する装置があって、NHKのニュースや相撲、野球放送が流れる。こういうときには娑婆にいたときに聞いた曲が流れたり、懐かしのメロディが流れたりすると郷愁感が生まれて感動するのかと思っていた。そうでもない。

 丁度、小学生から中学生にかけてよく聞いていたフォークソングがよくかかったが、ノルタルジーはあまり感じなかった。平井堅の「大きな古時計」が流行していた。だが、これも中学校の合唱コンクールで歌った思い出がある曲だが無感動だった。

 本当の芸術。監獄ではこれが一番感動する。一流の芸術が聞けるのはやはりクラッシックだ。映画「ショーシャンクの空に」で主人公のアンディが規則を破って放送室から刑務所全体に響き渡るように「フィガロの結婚」のレコードをプレーヤーにかけて、'duettino - Sull 'aria' を流すシーンがある。全受刑者が仕事の手を止めて聞き入る。このシーンが実感をもって理解できた。監獄にいるときに一番必要な音楽は真の芸術である。

 私は保釈されて娑婆に出てからしばらく聞かなかったクラッシック音楽のを再び聞き始め、以前よりも好きになった。

    「ゴールドベルク変奏曲」は、振り返ると10数年前に、アンドラーシュ・シフのCDを聞く機会があったはずなのに、その時はなんとも思わず押入の奥に隠れていました。当時知らなかったグレン・グールドの81年録音盤を後から聞いて衝撃を受けて、グールド1955年版、シフの再録音版はもちろん、年代的にも1920年代のワンダ・ランドフスカから2005年にリリースされた新人マルティン・シュタットフェルトまでの正統派、その他、キース・ジャレットが日本で録音したものややギター演奏のCDまで幅広く聞いて、中村道夫のクリスマスコンサートにもいきましたが、このペライア盤はグールド81年盤に比肩する名盤だと思います。(私は音楽の才能はないのですが、自分では勝手にそう思っています。)

   

全日本ライト級新人王、日本ライト級王座獲得、東洋太平洋ライト級王座獲得ととんとん拍子に実力を付け、WBC世界ライト級王座に初挑戦は、12R判定敗け 世界ランキングを1位に上げ、WBC世界ライト級王座に再挑戦。12R判定でまたも王座獲得ならず。三度目の世界挑戦はWBA世界ライト級王者から1Rに2度のダウンを奪うが、坂本は4Rにセラノのアッパーで目を負傷。5Rには更に傷口が深くなり、レフェリーストップによるTKO負けを喫する。王座獲得ならず。 再起してWBA世界ライト級王者となった畑山隆則がそのリングで一回目の防衛戦で会場にいた坂本を指名。1Rから両者は激しい打撃戦を演じ、10Rに坂本は畑山のワンツーでダウンを喫する。10RTKO負けで王座獲得ならず。

   

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2006年8月31日 (木)

獄中執筆記-傷害防止特殊ボールペンによる医学書院「医学大事典」の執筆-

1.             医学書院「医学大事典」の執筆依頼

 1998年頃、医学書院が「医学大辞典」を刊行することになり、先天性心疾患外科領域の項目の約50項目を私が執筆することになりました。以前ある英語の原書を翻訳し監訳したことがありましたが、この時は「同期医局員の記念として」の企画ということもあり収入はなし。勿論、この翻訳本には訳者、監訳者として私の氏名は記載されています。

 医学書院「医学大辞典」は、執筆した文字数に換算して原稿料もいただけるというばかりでなく、「幅広い医療関係者が使用する『辞典』に氏名が記される。」ということで、張りきって執筆しました。原書や原著論文も多く調べた上で、図なども交えながら本邦における現状なども考慮して執筆したつもりです。

2.             著者校正最終段階直前で逮捕

 この原稿の最終段階である著者校正が20026月頃に入りました。原版と同様に印刷されたものに、最終チェックを入れる程度の校正です。私は、629,30日の土曜日曜でこの仕事を終える予定でした。

 ところが、628日午前中に逮捕されそれどころではなくなりました。

3.             特殊ボールペン

Photo

 起訴前、起訴後も最初の45日間は牛込警察署内の代用監獄、つまり留置所に拘留されました。拘置所に入ると自分の私物として、市販のボールペンを購入することができます。一方、留置所では私物としてボールペンを持つこともできません。しかも、30数人を拘留する留置所内で警察署が用意したボールペンはたったの一本。これを全員で使い回しします。単に、警察側の管理上の問題だと思います。これでは、最低限の文化的な営みはできません。

 このたった一本のボールペン。娑婆でも、拘置所でもお目にかかれない代物です。ボールペンで、自分や他人を傷害がすることができない作りになっています。通常のボールペンは、ノック式でも、非ノック式でも「芯」に当たる先端部分が「ホルダー」から34mm突出しています。これを思いっきり人に突き刺せば、かなりの傷害を与えることができるはずです。しかしこの「代用監獄専用特殊ボールペン」は、「芯」の先端の「ボール」の部分だけがかすかに突出するだけで、0.5mm程度しか出ていません。しかもその周りの「ホルダーの先端」は球状になっているため、凶器になるどころか、ボールペンを垂直に立てないと字が書けないようになっています。

 房内のトイレのドアは、ロープなどを挟んでつるして自殺をすることができないような特殊なドアになっていますが、ボールペンもそのような観点から作成されて管理されているのかもしれません。

4.             留置所で「医学大辞典」の執筆、校正は可能か?

 起訴されるまでは、接見禁止。弁護士さん以外は家族であろうと面会することはできません。勿論、拘留後20日間連日朝から夜まで、警察官と検察官からの取り調べ。特に検察の取り調べは、午前様になることもある。(警察官は、司法警察と行政警察の関係もあり留置所のスケジュールを守る。これについては後述。)取り調べ中は、物理的にも精神的にも「医学大辞典」の校正にとりかかることができませんでした。

 起訴されると、当然検察の取り調べも警察の取り調べもなくなります。代用監獄内にただいるだけ。多くの被拘留者は、たまにストレッチをする程度で、読書三昧です。(座っていれば昼寝もOK)私は、「医学大辞典」の校正を再開しようとしました。

 しかし、代用監獄内では、ボールペンの使用は、弁護士さん等に「手紙を書くこと」のみに限られています。この時間を利用して校正を進めたいところですが、30数人で一本しかないボールペンを独占して、ルール違反の「著作行為」をするには気が引けました。

 結局最終的には、当時の拘留者達と行政警察員と私の人間関係が良好であったため、原稿を仕上げることができました。 今回のブログはその「獄中執筆記」です。

5.             行政警察

 留置所(代用監獄)を管理する警察官は、「行政警察」で、一般の巡査や刑事などの「司法警察」とは別の部署です。双方は、仲が悪い様子で、悪口を言い合っている。「行政警察」は、「司法警察」がルールを守るようにも管理しているので、検察官のように午前様になるまで取り調べは行わない。(少なくとも私の場合は。)

 この行政警察は、拘留者を管理するとともに、不利益が生じないように努力している。ある人は、私がマスコミに撮影されないように、移送車の内側に段ボールを張り巡らしてくれた。司法警察員の取り調べ時間が食事の時間に及びそうになると、取り調べ室に電話をしてくれて、房に返すよう注意をしてくれたりもした。

 私の検察庁での取り調べの「単送」(通常、留置所から取り調べのため検察庁に被拘留者を送る場合は、複数の拘留者をいっぺんに護送車に乗せていく団体移送。私の取り調べは特別長時間なので、団体だと他を待たせることになるので、ワゴン車で1人「腰縄、手錠」状態で、運転手1人警察官2-3人が一緒に行って返ってくる。)が深夜におよぶので、自宅に帰れず署内で休日の翌朝まで仮眠をとっていたという人もいた。

 彼らは交代で、24時間被拘留者に接しているので、概してフレンドリー。よっぽどお堅い人以外は、暇にしている被拘留者との雑談がつきない。私に対しても「なんかよくわからないが、4番(私の呼称番号)は無罪の可能性ありそうだな。」とかいいながら、よく健康相談をしてきた。柔道選手で全国大会にでるような人もいて、「不整脈」や「徐脈」についての質問から、骨折後の治癒状態の診察、妻のルポイド肝炎の予後について、被拘留者の頭部外傷後の頭痛の頓服の必要性について。複雑なところでは、後述する覚醒剤常習者のフラッシュバックとアルコール中毒禁断症状の鑑別診断もあった。 

 行政警察官は名前を明らかにしていないが、愛着もあり、ひとりひとりに、私なりのあだ名をつけていた。「カバやん」「ブーやん」「本番モンチッチ」「バレーボーズ」「内山くん」「サリン」「黒キツネ」「ヒゲだわし」「長さん」「坊や」・・・。

6.             同房の先輩

 私が最初に留置された房の「先輩」は、全国指名手配されたこともある元暴力団員で小口金融業の Iさん。今回は、酩酊状態での暴行による「傷害罪」の疑い。今回が10回目のブタ箱入り。この人は面倒見がよい上に、漫才師以上に話しが面白くて上手、私より歳が一つ下で、共通の話題も多く直ぐにうち解けた。

 最初の会話はいきなり、「佐藤さん、お医者さんだろ。言いたくなければ言わなくていいけど、何で捕まったの。」だった。「ここに来たら、田中角栄だろうが、鈴木宗男だろうが、やくざの親分だろうが扱いはみんな一緒だ。ただし、君には、気をつかって、同房者を選んだ。『プロ』だからいろいろ教わるように。」と牛込署留置場の主任言っていた。おそらく私が入る前から、Iさんに私の面倒をみるように話をしていたようだ。彼は留置所、拘置所、刑務所でのしきたりや過ごし方、身の振る舞い方をおもしろおかしく話をしてくれた。10回目の拘留のベテラン曰く「佐藤さん。警察の言うことの90%はウソで、弁護士さんの言うことは90%がホントだよ。」「警察は、先ず弁護士さんの悪口をいって引き離しにくるから、信じちゃダメだよ。」それが正しかったどうか。私はよく知っている。

 もう1人の「先輩」は、ミャンマーの少数民族の人で、ザオタン(仮名)30歳。アウンサン・スーチーさんの自宅前の集会にも出席したことがあって牧師志望だが家族7人を養うため日本のラーメン屋さんで働いていた。牧師の勉強をするため「ビザ切れ」のまま不法滞在。早稲田の平和教会に行くところを逮捕された。「恐喝にいくところを逮捕されたことなら俺もあるぜ。」とI.さん。

 毎朝、房の中は「房長」Iさんを中心に部屋の掃除。新入りは当然「便所掃除」担当で、ザオタンが、掃除機の本体とコードを操り、Iさんが実際に掃除機をかけるという日々。布団は基本的に自分のものは自分で出し入れして敷いたりたたんだりする。私は毎日消灯後に検察の取り調べから帰ってくるので、彼らが布団を敷いてくれていた。

「誰が何の罪で逮捕されたか。起訴されるか。執行猶予がつくか否か。」ということが、被拘留者の一番の関心事。私は特に毎日消灯後に検察から帰ってくることと、パジャマを着ているのは私だったことから(主任曰く以前はやくざの大親分が着ていただけで私は二人目だったらしい。ただし、私の他にも着る人が増えて小さなブームになった。)かなり目立っていた。私が「医者」であることはほぼ全員が知っている様子だった。房の外を歩いていると「先生何やったの。」とか「あんた女子医大の医者だろ」とか声をかけられた。

7.             被拘留者達との関わり

 当たり前のことだが、被拘留者は逮捕された人達の集まりで、その多くは犯罪者である可能性が極めて高い。暴力団関係者、右翼関係者、麻薬・覚醒剤常習者が多い様子で、被疑事実としては、傷害、恐喝、詐欺、薬物、不法滞在、窃盗、不法侵入、道路交通法違反関係などで逮捕された人が多い。日本国籍の人は6-7割といったところで、米国、中国、韓国、北朝鮮、イラン、ミャンマー、フィリピン等多国籍軍である。全体を見回すと外見は決していい人の集まりではない。入れ墨、タトゥー、4本指、玉入りのどれか一つ以上に該当する人は半数くらい。アルコール依存症の禁断症状や覚醒剤のフラッシュバックで、三日三晩大暴れするような輩もいる。

 一般的な勤め人が彼らの中に飛び込んだら普通は萎縮するのではないだろうか。私は、留置所の扉を目の前にして少し心配はしたが、入った後は、余り気にならなかった。他の被拘留者とは対等に話しができた。(心配だったのはむしろ、地震だ。牢屋に閉じこめられている時に大地震がおきて、鉄格子が歪んで出られなくなったら・・・ということを考え警察官にその危機管理体制について質問した。)

 逮捕当時、私はこども病院勤務だったが、地方の国立大学で学び、女子医大、地方の国立病院、県立病院、市立病院、済生会、下町の私立病院で勤務し、10以上の病院でアルバイトをしてきたので、多様な地位、職業、国籍、境遇を持った人達と会話し診療をしてきた。

 小児心臓外科であっても、それまで成人患者や家族との診療や会話も充分経験していた。元総理大臣のHさんに病状説明したり、現役大蔵(当時)大臣夫人の止血をしたり、ある大学の学長の中心静脈を入れたりしたかと思えば、公園で倒れていたホームレスの心不全を治療したり、留置所で首つり自殺した人の死亡診断をしたり、拘置所被拘留者を手錠付きで心臓超音波検査したり、不法就労のパキスタン人の緊急カテーテル治療をしたり、残留中国日本人孤児の心肺蘇生をしたりした。政治家、経済界、弁護士、官僚、元軍人、警察官、学者、教師、女優、歌手、アナウンサー、政治評論家、プロ野球選手、関取、柔道オリンピクック選手、・・・。入れ墨、4本指、3本指、玉入れをした人達も沢山いた。

 今回は、特殊なメンバーの集まりと寝食を共にすることになったが、「昨日今日知り合った人達と檻の中で体育会合宿をしている。」と考えることとした。

8.             起訴後は房長、留置所の古株

 同房者は次々と不起訴や東京拘置所への移管等で出て行ったり、新入や房替えがあったりでどんどん変わっていったが、皆、検察庁からの帰りが遅い私の布団を敷いておいてくれて、長い取り調べの疲れを気づかってくれた。

 Iさんは、被害者の告訴取り下げで釈放、ザオタンは、強制帰国。同房者は、右翼団体所属の覚醒剤売人のフクちゃん、NHK大河ドラマにレギュラー出演したこともある俳優兼ソムリエのS君(私とフクちゃんにジャズダンスのレッスンをしてくれた。)、新宿Lビル前の路上古本露天商のNオヤジさん、風俗店店長のT君らが入って来たが、私より先に出て行った。出て行くときに、Iさん、ザオタン、S君、T君は自分の連絡先を私に残していった。

 そして私は、起訴された。 起訴されると、取り調べはなくなるので、精神的圧迫が低下する。しかし、面会、官本の交換、運動の時間、5日に一回の入浴以外は、牢屋の中だ。接見禁止もとれて、それまで毎日面会に来てくれた弁護士さんの他、妻が毎日面会に来てくれて、父親、弟、親戚の叔母達、高校の同級生、大学の同級生、医局の同僚や先輩がどんどん面会に来てくれた。(拘置所では、拘留者は1日一回5分程度の面会。)テレビドラマでよくでてくる透明のアクリル板越しの会話が一回につき20分(弁護士さんは無限)会話ができる。ほぼ全員が本を差し入れてくれた。自分のロッカーに入れられるだけ入れて、房の中には3冊まで入れられる。これを機会に、「医学大辞典」の校正とともに、心臓外科学や先天性心疾患の原書を端から端まで読んだり、苦手な「多変量解析」の原書を読んだりしようとしたが、訳がついていない外国語の本は差し入れしては行けないルールがあり実現しなかった。

 しばらくすると、私より少しだけ拘留生活が長い二人の外国人が、体の変調に悩みを抱えていて、私の同房者になった。

9.             牛込留置所房内健康相談

 ナセル(仮名)は42歳のイラン人で覚醒剤の密輸。朝と眠前にアッラーの神への祈りを怠らない。日本語が全くできないので、本が読めない。お祈りの他は、食事して軍隊にいたときにやっていたストレッチと私が「ナセル式腹筋」と名付けた珍しい運動をやる以外は何もしていない。いつも静かだった。彼が夕食後泣いていることがよくあった。私は逮捕の1ヶ月前にあったトロントでの学会発表の英語口演準備と留学の準備のため、ネイティブの米国人に英会話の個人レッスンを受けていたので、現在よりは当時は英会話が多少できたが、ナセルの英語は本当に片言だけ。何とか事情を聞き出した。

 「逮捕されて留置所にいるが今後どのような流れで裁判が進んで、何処に連れて行かれるか分からない。イランには新妻と赤ちゃんがいて会いたい。接見禁止で通訳と弁護士にしか会えない。食事が慣れない米飯と揚げ物で食欲がわかない(「クサイ飯」は確かに栄養について全く考慮されていない上、まずかった。拘置所の食事は栄養充分で暖かくて結構おいしいが、留置場は人権侵害とおも思えるほどPOORな食事である。)、その上、便が固くなって何日も便がでない。」便秘は、定期健診が控えているので、そこでなんとかすることとした。

 接見禁止は罪状からして起訴後も解除されそうにない。

 ホームシックに対しては、気をまぎらわせようとなるべく会話しようとしたが、複雑な話なると理解できない。そこで私は自分の本の中から、日本語が分からなくとも楽しめる本を房に持ち込むことにした。写真集や商品カタログに近い雑誌、パズルや図に書いたクイズの本等は、眺めるだけで楽しめる。写真集はせっかくだから日本ならではのものを見せた。棚田の風景写真集、奈良京都の寺院の写真集。彼はイスラム圏の人なので、西洋絵画もあまり見ていないようだった。そこで、世界絵画全集のダイジェスト版などつぎつぎと房に持ち込んだ。だんだんうち解けてきて「さとうさん」と言うようになった。

 陸さん(仮名)は45歳。上海蟹で有名な澄湖近隣出身。在日12年。オーバー・ステイで逮捕。中国の建築関係の高等専門学校を卒業して、日本へは技術者として来たらしい。日本に来て2年間、日本語会話の勉強。一般の日本人遜色ない流暢な日本語で饒舌。建設現場で、日本名で● 陸●の名前で指導者になっていた。日本に入ってくる本当の陽澄湖産の上海蟹は極めて少ないので騙されないようにとのこと。彼の父は地方の役人で結構地位が高かったらしい。成田に中国の要人しか入ることのできない中華料理店があるらしいが、彼は父と一緒に入ったことがあるといっていた。中国人は何でも食べる。陸さんは、熊の手はもちろんだが、ワニや亀、鶴、鹿が好きだといっている。ブランド好き。「シャープの液晶30インチ 47万円。キャノンの400mmの望遠レンズ 67万円。パナソニックのオーディオ 何十万円。バーバリーのトレンチコート 20万円。・・・」最終的に手取りで40万円ほどの収入がある独身貴族で、欲しいブランド品をどんどん買って様子で、値段付きで購入したものの自慢話をよくしていた。毛沢東が受けた手術について本で読んで、私に質問してきた。「佐藤さんはレベル高いから。」が口癖で私のことが気に入ったようだ。

 陸さんの悩みは頭痛だ。彼は、日本語学校の通っている時にカラオケボックスでアルバイトしていたところ、酔ったお客にビール瓶で頭を殴られて脳内出血して開頭手術を受けたという。五分刈りにしたばかりで、確かに大きな傷が頭に目立つ。前回の健診を受診して、投薬を受けた。ロキソニン(鎮痛剤)を一日3錠処方されたが、それでも頭が痛いことがあるので、私の房に来る前から担当の警察官に薬を臨時でくれと訴えていた。「先生(前回処方してくれた医師)は1日3回食後と書いているので、それ以上はだめだ。」と警察官。「じゃ早めにほしい。」「食後と書いてあるので食後じゃないとダメだ。」陸さんは頭にきて牢屋の鉄格子というか鉄板をガシャガシャ音立てて揺すって警察官を罵っていた。私の房に来てからは、売春斡旋をしたという韓国の人からプレゼントしてもらったパジャマを着るようになった。

10.      定期健診と留置所内処方

 月に一回の割合で、医師の健診がある。問診と簡単な診察で終了する。慣れてはいるはずであるが、健診医先生も、拘留者の面々の前でやや緊張気味か。私は、「自分の健康状態は良好ですが、う歯があります。」といったら、診察なしで、終了。房別に受診するので、私、ナセル、陸さんの順で健診を受けた。

 ナセルは、医師の前で困った顔をするだけ。「この人は、日本語も英語も苦手なので、私からお願いします。慣れない米食がつづいて、強度の便秘のようです。緩下剤と下剤も2種類くらい処方していただけないでしょうか。とりあえずカマ、アローゼン、プルセニド当たりでお願いします。」先生は言われるがままに処方してくださいました。「すこし出しゃばり気味かな」と思ったが、警察官もいいとも悪いともいわないので、継続することにした。

 前述のように、陸さんの頭痛は警察官とのトラブルの元にもなっていたので、これを先生に説明。「ロキソニンは内服しているようですが、自制できないときもあるようなので、何か屯用で鎮痛剤を処方していただけないでしょうか。」先生は、ボルタレンを屯用で処方してくださいました。

11.      被拘留者達の協力と校正の再開

 ほとんど通常の意識がない人が夜中に入所した。めったに見られない手首まである彫り物をしょっていた。覚醒剤のフラッシュバックか、アルコール依存症の禁断症状かどちらかわからない状態で、3日間暴れて、叫びまくっていた通称「広島の先生」。留置所の雰囲気は最悪になった。彼の発作について、主任からいろいろ相談を受けたがその内に症状は落ち着いた。その後は、平和な状態が続いて、いがみ合う人もいない。

 留置所内の「図書館」にある面白そうな官本を全て把握したころには、私も古株になった。同房は、池袋のブティック店員で麻薬常習者、弁髪のM君やよっばらい運転のサラリーマンO君が増えた。5日に一回の入浴の時、運動の時間と称する喫煙タイム(私は喫煙しなかった)、官本を借りたり、返したりして房を出ている時にのみ、他の房の人達との交流がある。他の房の人達が、私に「どの本が面白いか。」を相談してくるようになった。

 場の雰囲気をつかんで、私は、「医学大辞典」の校正を再開した。「代用監獄専用特殊ボールペン」は、ほとんど私が一日中使用することになった。房にはプライバシーは無いので、警察官も同房の人も他の房の人も、私が何をやっているか承知だったが、何も言わなかった。「佐藤さん。ペン使いたいだけど。いいかな。」他の房の人から声がかかる。勿論、自分の物ではないので、当然ゆずる。

 校正が終わるころ、O君が出て行くことになった。自分の連絡先を伝え、どうしても私の住所が知りたいというので、教えた。そうそうに出て行ったが、ナセルにアラビア語の本、陸さんに中国語の本、私に寺院の写真集を私の自宅に送ってくれた。妻が差し入れしようとしたが、前2者は、日本語訳がないので、ルールに従って留置所には入れられなかった。現在も我が家にある。

12.      弁護士さんの協力

 Iさんは、「弁護士さんの言うことは90%がホントだよ。」といっていたが、私は、弁護士さんを100%信じていた。何故かは、別の機会に書こうと思う。弁護士さんを信じずに解任した人の話を聞いたが、私には絶対にあり得なかった。

 完成した「医学大辞典」の原稿は、弁護士さんに渡して投函してもらうこととした。留置所で書いたからといって、その内容に問題はあるはずがない。忘れられない執筆となった。

 そうこうしているうちに、私も東京拘置所に移管となった。最後に全部の房の人達に挨拶した。何人かが連絡先を紙に書いて渡してくれたが、後に拘置所の通路ですれ違ったりすることもあった。

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